121. 才能の限界 2
少しタイトルに変更を加えました。
本文に変更はありませんのでご承知おきください。
121. Breaking Point 2
ああ、彼は射貫かれている。
微動だにしない大狼の後ろ姿を見て、そんなことを想った。
生前の記憶とでも言えば良いだろうか。
彼は軍神が放つ拳銃の吠え声に、殊更の恐怖を覚えていることが窺えた。
強張っているのだ。
立て続けに撃ち込まれた恐怖が、脳裏に巣食って離れない。
疑いようもなく、その一発一発は狼の毛皮と骨と肉を撃ち抜き、そして殺したのだ。
もしそれが、最愛の群れ仲間を掠めようものなら。
痛みとは相対的であると、思い知らされてしまう。
振り返った表情には、焦りの色がありありと浮かんでいた。
出会ってから、ずっとそうだったのだろう。
片時も、彼女の息遣いを聞き漏らしたことが無かったのに違いない。
あの日、あの夜明け。
家族の匂いだけが残る巣穴をどれだけ見渡しても、貴方は誰の出迎えも得ることが叶わなかった。
ありありと、思い出されているのですか。
私の夢の中でさえ見せて下さらなかった、大狼の長の結末を。
「……。」
彼自身が確信しているのであれば、俺はもう何も言うことが無かった。
俺にだって、足音を聞き取れずにいるのに。
万に一つも、この狼は間違えまい。
しかし、Sirius。
私の狼よ。
「まだです…」
「まだ…彼女を確かめるまでは、終わっていません。」
「一緒に、行きましょう。」
そう誘いの鳴き声を立てるのにさえ、声が震える。
別に彼が怒りの形相をしているとかでは無かった。
上唇を捲ろうとしてさえいなかった。
瞳は、礼儀正しく俺を直視しない。
今にも零れそうな涙を、いっぱいに溜め、
現実に対して、真摯であったのだ。
それ故、彼は理性的に俺の言葉を受け止めてくれるものだと、期待した。
「ひょっとすると、彼女の命はまだ、損なわれていないのかも。」
「そうは、お思いにならないのですか……?」
Siriusは、そのような期待が無情であることを知り過ぎていた。
けれども、彼は全知の大狼である以前に、愛情に溢れた群れの一匹なのだ。
私も、あの神様に対して、似たような期待を何度も持たされてきました。
そして、奇跡は私の預かり知らぬところで起こされた。
伝わるでしょうか?こんな捻くれた価値観が。
まるで、私の奔走には、少しも報いるところが無くて、けれどもその不幸せな一生を、ますます酷いものにする代償として、今回だけは微笑んでやろうと言われている気がしたものです。
だからこそ、私は咎められることを恐れつつ、無為に己を犠牲にすることに、余念が無かった。
Sirius。貴方は、苦しみ過ぎました。
きっと、せめてもの幸せの提示として、少女の命は奪われていたりしません。
Sirius。無責任に聞こえるかも知れません。
「あの時。貴方は構わず、先に進むべきだった。」
私は、そのような読後感を覚えます。
皆貴方に、会いたがっていた。
喩え誰かが、間を引き裂こうと行く手を阻んでも。
此処で立ち尽くし、遠吠えの返事を待つよりも、確かな手がかりを得られるとは思いませんか?
「ねえ、Siriusっ…!!」
仮に、私たちが、凄惨な現場に出くわすことになったとしましょう。
そうしたら、私は何もしません。何も言いません。
私は貴方が怒りに身を任せてすることを、黙って見つめています。
誓って、私は誰かを護る為に、貴方の行く手を阻まない。
貴方が望むのなら、私は貴方の復讐に牙を貸すことだってするでしょう。
それが彼女の為になると信じ、私にそう命じるのであれば。
私は、私に齎された幸せと悲劇を、全て忘れる。
だから。
だから、Sirius。
その涙を流して、身を伏せるのを。
もう少しだけ、もう少しだけ、我慢してください。
瞼の裏に描かれている未来に、力を奪われないで。
前を見据えてください。
「Sirius……!!」
彼は暫くの間、瞬きをじっと堪えて、戸惑いに尻尾を漂わせていた。
しかし、やがて目を伏せ、俺から身体ごと逸らして表情を隠そうとする。
「主よ、我が羨望の狼よ。」
「は、はい…?」
「斥候を、頼まれては、くれぬのか。」
「物語の終わりを目撃するぐらいなら…」
「主はそれを読み終えぬことで、永遠に胸の内に仕舞っておく罪を、犯したことはないのか?」
「……。」
じわりと、涙腺が痛む。
彼には、ばれていたのだ。
いや、隠そうともしなかったのに、そんな言い草は無い。
俺の子供っぽい背徳を、隣でずっと見守ってくれていた。
ずっと私が、焚き火の前で、尻尾を揺らしながら読み耽っていた絵本の中にも。
嫌いで、恐い本があったのです。
狼の話でした。
人間に捕らえられ、最愛の狼の亡骸を目の前に晒されて。
それで、そのまま、森に変えることも出来ないままで。
それで…それで…その狼は…
いつも耐えきれなくって。
そっと目を伏せ、結末を見届ける前に、閉じてしまう。
「ご、ごめんなさい。私はっ……!」
言い返す言葉など、見つかる筈がない。
Siriusの弱音は、何よりも染みた。
狼狽える姿を目の当たりにして、失望の眼差しと捉えられたくなくて。
「…すぐに、貴方の代わりに…!!」
踵を返し、自分も表情を隠してしまう。
「……。」
「本当に、ご一緒……されないのですか?」
「…すまぬ。」
「怒りに、身を任せることを、私は寧ろ止めません。」
「主は、優しい。」
「そんなこと、ないです…」
「さあ、行くが良い。」
「……。」
「…分かりました。」
「ああ、ありがとう。我が……。」
「ならば、私の勝ちです。Sirius。」
「……?」
「見損なったとは、申しません。」
「ですが貴方は、負けを認めたんですっ!!」
「な、に…?」
俺は震えて攣りそうな脚をぎこちなく動かし、虚勢で叫ぶ。
「言った筈だ!!」
「先にTeusの元へ至った者が勝ちだと!!」
「私は、先に向かいます!!」
「だって私は、諦めてなどいないからっ!!」
「だからそこで…図体ばかり成長して、ずる賢くなった私の後ろ姿をっ…そこで見ていてください!」
「俺はっ…俺はぁっ……!!」
「俺は貴方をっ、見捨てないっ!!」
「俺はまだ動くっ…!!俺はまだ走れるっ…!!」
「俺はまだ、貴方の物語の続きを見たいっ…!!」
「俺は'Sirius' という狼を越えるんだっ!!」
「俺は'Sirius' より、速く走って見せるっ!!」
「はぁっ……あぁっ……ああっ……!!あ゛あ゛あぁっ……!!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛っっっ!!」
「…ぬ、主よ……!」
「うあ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーーーーーーっっ!!」
もう、恐くて振り返れない。
ごめんなさい、生意気な口を聞いたりなんかして。
怒っているのかな、Sirius。
狼に、狩られているような気分です。
「……ありがとう。」
僅かな息継ぎの直後、
「Final Lapだ……」
俺の背後には、猛追の影が張り付いていたのだ。