119.才能の試練 11
119. Test of Talents 11
平穏な狼の縄張りは終わった。
転寝の最中に、ちょっと耳を澄ませるだけで、どんな侵入者の動きも察知できたと言うのに。
どうしたことか、たった一匹の暴れん坊のせいで、他のあらゆる息遣いが掻き消される。
Teusの居場所を探すことは、困難を極めていた。
良くない兆候であると言えた。
彼の方から、俺に助けを求めることをしないということは。
Teusの身に何かがあったことを意味していたからだ。
「頼むぞ…おい…」
一連の大地震が収まってから、耳を忙しなく動かし、周囲の雑音を幾度もかき集めている。
それだけで、凡その状況を掴むことができる。
かなりの数の動物たちが逃げ遅れ、巻き込まれてしまったようだ。
彼らが放つ足踏みや、歯を食む営みの総体としての雑音の密度が、ぐんと下がっている。
ただ一匹の行進を除けば、不気味なほどに住民は静けさを保っていたのだ。
そして、恐ろしかった。
彼が俺の名を呼ぶ声も、鈍い二足歩行のリズムも、近くにいない。
歩けなくなるぐらいなら、まだ良い。
俺の背中に載せて走れば、お前は何処にだって行ける。
だが、声やその類さえも出せないとなると…。
いや、気絶しているだけだ。
倒木に潰され、圧死したり。
土砂崩れに流され、生き埋めになっていたり。
沼の中に溺れ、最悪の死を迎えているなんてあり得ない。
何か、理由があるはずだ。
俺との交信を試みる余裕がない状況に立たされている事情が。
それは何だろう?
Siriusとヨルムンガンドを追いながら、仮説を組み立てる。
勿論、近くを這い廻るヨルムンガンドに対して、息を潜めていようと思うことは、至極当然のことだった。
ついさっき俺がそうしたように、やり過ごそうと思うだろう。
我ながら、もどかしい喩えをしてみる。
もし真夜中の森の中で狼人間に追われ、大樹の裏に身を隠しているような状況に立たされているなら。
どれだけ恐怖に喉を急き立てられようと、流石に助けてと叫び声を上げる愚行には走るまい。
誰かが、狼人間を撃ち殺してくれるかも知れないなどとは考えないだろう。
だが、他の旨そうな獲物に目移りして自分のことを見逃してくれるかも。それぐらいの希望を抱くことはする筈だ。
その直後に、背後から爪が延び、腸を引きずり出されるのだとしても…
何を馬鹿な妄想に耽っているのだ。その断末魔さえも、俺の耳には届いていない。
その狼人間の正体とは、何だろう。
ヨルムンガンドは、俺かSiriusを追うことに躍起になっている最中なのだ。
俺はこう考える。
Teusは、全く別の脅威の接近に怯えているのではないか、と。
そして、既に対峙している。
「……。」
辻褄があった、というだけだ。
しかし、俺には、妙に引っかかったのだ。
あの大狼が、迷いなく向かっている先とは。
Teusの居場所では無いのではないか?
喩え天地のひっくり返るような戦争の最中であっても、駆けつける。
Siriusにのみ、それが叶う存在。
「……Hel?」
いるのか?
Teusのすぐ傍らに。
なあ、Garm。
お前の本能が、記憶が。
馳せ参じよ、そう叫んでいるのか?
“Helは、我々を救ったのだ。”
“しかし、損ないの狼に、生を与えるなど。”
“これは……’愛’ であるのか?”
そうではない、か。
失礼しました。
これは、貴方の本能であるのですね。
俺がTeusを案ずるように、彼女を想い、今すぐにでも身代わりとなる手立てを懸命に探っている。
私との狼の対話を投げ捨てた時点で、貴方の目的とは、それ以外にない。
余りにも無力な俺に、僅かな情けを見せただけ。
道中で、俺がぴーぴーと哭いていたから。
ちょっと前脚を貸してくれたのに過ぎなかったのだ。
「己惚れも、度が過ぎていた…」
思わず赤面して、顔をぶんぶんと左右に振る。
黙っていようと思った。
早くSiriusに追い付いて、あの時はありがとうございましたと、礼を伝えるだけにとどめておくにとどめておくことにしよう。
貴方にとって、自分が特別であるとかいう誇りは、俺を余りにも間抜けに微笑ませ、尻尾の調子を悪くする。
「Sirius、どうして貴方には、Helの居場所がすぐに分かるのです…?」
生死の契約を果たした者の間には、そのような、次元を超えた繋がりが漂っているのだろうか。
想像に難くないと思ったが、疑問は増えるばかりで、俺は幾ら彼との対話をしても足りそうにない。
目下、彼の知見を借りたいと思うのは。
どうやってヨルムンガンドをこの舞台から弾き出すか、でしょうか。
そうしたいと考えている筈だ。
あの大蛇は、我々の対話に、何の関係も無いはず、そうですよね?
Siriusが白蛇の注意を引きつつ、Helも元へと猛進すると言うことは。
彼女に頼ることで、撃退ができるという算段が、少なくとも、彼の中では立っているということだろうか。
俺が、Teusに対して、同じ期待を抱いているように。
神様の奇跡に頼るのが、賢明な判断であると考えている。
「それで、良いのか…?」
ならば俺は、補助に徹した方が良いだろうか?
Teusに神様としての異能を発揮させることに後ろめたさを感じていた俺に、ふとそんな迷いが浮かぶ。
どうするつもりなのだ?
Helは、自分に刃向かう脅威の全てを、お付きの大狼に任せていたものだとばかり思っていたが。
彼女自らが動くとき、一体何が起きる?
これだけ狼の森を破壊し尽くし、腐らせ、眠りさえも妨げた少女に。
好き放題させても良いのだろうか?
「……。」
俺は、惰性で回し続けていたギアを無理やり2段階上げた。
気持ちが乗ってこないが、つい先までと同じ追跡スピードに戻そうと試みる。
追い付くだけじゃ駄目だ。
追い越さなくては。
あの蛇を、どうするか。
その決断は、やはりあの神様に委ねるべきだ。
何故かは分からないが、そう思った。
「……可哀そうだ。」
SiriusがHelに至るより先に。
俺がTeusに至る。
そうすることが、俺に出来る、
精いっぱいの弔いだと思ったのだ。