119.才能の試練 9
119. Test of Talents 9
脇目も振らなかったせいだ。
気付けば、己の位置を見失いかけていた。
ヨルムンガンドの暴虐は、収まることを知らなかった。
もう目の前で獲物が逃げ惑っていると確信しているからだ。
此処まで滅茶苦茶に荒らされてしまっては、彼も無事ではいられまいな。
一挙手一投足が、体験したことのない地震を生み、道中幾度も立ち止まることを余儀なくされる。
この大蛇が苦しみにのたうち回れば、世界はその衝撃で、いとも簡単にひっくり返るに違いなかった。
それは、望ましいことだと、俺は思う。
空は地よりも深く堕ち、地獄へと様変わりするだろう。
しかし代わりに、俺が追放したSiriusの暮らす世界は、天に昇るのだ。
ならば、覆してくれても良いのかもな。
「……どこだ、此処?」
地形が歪み過ぎて、勾配が分からなくなりかけている。
遭難の典型的な初期症状だった。
山道を登っているのか、下っているのかさえも分からないだなんて。狼の風上にも置けない。
上空から俯瞰が出来れば、どれだけ楽だろうか。
それに似たようなことは実は出来て、大木が折れないようによじ登って、天辺付近で大きくジャンプすると、鳥が羽ばたいた直後ぐらいの景色を堪能することは可能だ。
しかし、そんなことをしている余裕は一切なかった。
大蛇は鎌首を振るい、手当たり次第に木々をなぎ倒し、大狼を炙り出そうとする。
やり過ごすのも限界に近い。確実に俺が付近を走っていることを察知し、狙いを澄ませている。
…どうする?
戦うか?
そもそも、そんな愚行が、可能なのか?
蛇に睨まれた蛙、そんなサイズ感だった。
俺の脚は竦んでなんていないが、どう見たって爪牙で太刀打ちできる大きさをそいつは超えていた。
ヨルムンガンドの首を掻き切るなんて芸当、俺が10倍ぐらいに膨らまないとできる話ではない。
ならばこの乱入者を、退却させる手立ては…?
「しまったっ……!!」
逆境からの脱却の為、思考を必死に巡らせていたせいだ。
前方にぱっくりと口を開けた亀裂に気づくのが遅れ、ブレーキが間に合わない。
なだらかな丘を進んでいるとばかり思っていた。眼下に伸びた大地の裂断は、ヨルムンガンドが既にこの辺りを這っていた証拠だ。
ドドッッ……ガガガガッ…ザザザザッザザーーー!!
爪だけでなく、身体を横に捻って倒し全身で摩擦を生むが、先までと同じか、それ以上の猛進を続けていた巨体は、止まろうとしない。
「……っ!?」
それを、待っていたようだ。
トタテグモが巣穴から這い出るようにして、白い突起が姿を現す。
嘘だろ…こんなことってあるか。
これだけ足音を立てる獲物が地上にいれば、そんな先回りも容易いという訳か。
しかし、これで落下死を心配する必要はなくなった。
「掴まっていろっ!!」
背中に誰も乗っていないのに。
俺は咄嗟にそんな戯言を吐いた。
いや、その…俺の背中に、ヨルムンガンドの真の標的が居座っていると思い込んでいるようだったから。
演技だよ。演技。
あいつは良く、崖の上から落っこちるからな。
俺は右の前後脚で地面を叩いて瞬時に身を起こすと、崖っぷちで大蛇の大口と相対した。
ぐいぐいと加速し、なるべく目の前の大怪物ではなく、対岸だけを見据えてひた走る。
“シャァァァァァァーーーーーーーッ!!”
蛇腹を伸ばし、鎌首が崖の淵ごと俺を飲み込もうと齧り付く。
「今だぁぁっーーーーっ!!」
俺はその上を、跳んだ。
Teusがいたら、絶叫している。
代わりに今回だけは、自分を奮い立たせるつもりで叫んだ。
ヨルムンガンドの噛みつくスピードを測りかねていた。
思ったよりも、俊敏なのだな。
尻尾が何かを掠めたが、俺はどうにか蛇皮の上に着地する。
どちゃっ……
「うっ……?」
肉球に、冷たく滑った感触が伝わる。
「なんだ、この皮膚…?」
牙が、弾力のせいで全く喰い込まない。
薄氷の上を歩くように、俺はバランスを崩して前足を大きく左右に開いてしまう。
「うあっ…すっ…滑るっ…!!」
情けなくぺたんと尻餅をつき、俺は滑り台の如く、蛇の生皮の上を動き出してしまった。
「いぃっ…!!」
尻尾を付けたくなかったので、ぴんと上げていたら、お尻が気持ち悪い。
嫌な感触に、背中に寒気が走った。
雪山をお尻で滑るのは大好きなのだが、生き物の粘り気を擦り付けられているようで、これは堪らない。
そして、もっと問題なのは、
止まる方法が、今のところ全くもって思いついていないことだ。
「うああああああああああっっっっーーーーーーーーーー!!!!!!!」
このままでは、奈落の底へ、蛇の巣穴へ真っ逆さまだ。
何か、何か飛び移れそうな足場は無いか…?
左手に見えるのは、出来上がったばかりの渓谷と見える。
こんな地形はあったと記憶していなかったから、ヨルムンガンドの頭部は、割と海岸沿いで俺たちのことを見失っていたらしいことが伺えた。
俺たちの慎重な行動は、一応は実を結んでいたらしい。
右手には、はるか向こうにヴァン川が目に入った。
こんなに、目的地から離されていたのかと気が遠くなる。
目視だけでは正確なことは言えないが、俺の根城は此処から中間ぐらいなるだろうか。
良かった、荒らされていたらどうしようかと不安で堪らなかったのだ。
「……何て見晴らしが良いんだ。」
つまり、何も頼れる術はなかった。
俺はとんでもない奴の背中に、運命を預けてしまったのだ。
「結局…跳ぶしかないのかっ!!」
ヨルムンガンドの身体を伝って、格好よく崖の向こう側へと走り去るつもりだったのだが、これでは助走もままならない。
今世紀最大の跳躍を、ついさっき繰り出したばかりなんだが。
目の端に見えた細長い二股の舌を見て、腹を括った。
対岸の崖には、とても届きそうにないが…
俺は再び開かれた大口が飛びかかる瞬間を見計らって、蛇の表皮から離脱する。
もしかしたら、おとぎ話のように、自分の身体に毒牙を喰い込ませて、自滅してくれるかも。
そんな期待は、しない方が良いか。
撃退など、考えるだけ無駄のようだ。
「あうっ…!?」
そんな甘い想像を咎めるかのように、俺の跳躍は何とも間抜けに終わった。
ヨルムンガンドの蛇皮が、彼の頭の動きに合わせて天に昇ったせいでタイミングがずれ、後ろ脚に力を込めた瞬間に、思い切り足を滑らせてしまったのだ。
「さっ…最悪だっ…」
半回転して空中で体制を立て直すと、碌に向こう側の岩壁との距離を縮められていないことに気が付く。
ガリッ…ガガガアガガガガガガアガアアッッッ……。
前脚がようやく断層の突起に触れた頃には、落下の距離は相当なものになった。
そこから四肢が完全に面を捉えて止まるまで、更に壁を擦って引きずる。
パラッ……パラパラッ……
「……。」
「これは……ちょっとまずいか。」
すぐさま壁を這い上がろうと地上を見上げるも、優に100メートルはあった。
まだ壁に貼り付ける爪があるのが救いだが、とても瞬時に復帰できるような状態ではない。
歩く巨人に取り付き、身動きの取れなくなった虫けらのようだ。
獲物を落とさぬよう舌で絡めとるのに、この蛇は、どれほど苦労してくれるだろうか。