119.才能の試練 6
119. Test of Talents 6
裏を、書かれたのだ。
それでいて、反射的に彼との袂を分かつことを選んだのは、我ながら正解だったと思う。
足場の悪さと、想定できない路面の悪化を考えると、とても彼の後ろに着いて走ることは出来ない。
地面を読むことが難しい追う側の弱みが、此処で最大に響いて来る。
そうなれば下手に食らいついても、とても追い越しを検討する余裕はない。
先行く側のSiriusも、後方への泥はねに気を遣うだろうし、もし彼が溝に足を滑らせ、踏み外すようなことがあれば、俺は急ブレーキをかけても間に合わず、巻き込まれて一緒に転倒してしまうだろう。
安全性を考慮すれば、今あの獣道の定員は、やはり一匹のみであったのだ。
しかし…その一匹に、俺はなれなかった。
何故Siriusが、敢えて茨の道を突き進むことを選んだのだ…?
どう考えても、Siriusは最短かつ最悪の経路を検討する必要が無かった。
これは、所謂タイムアタックではない。
駆けっこを心行くまで楽しんだ末に、俺にさえ先行することが出来れば良いのだから。
だがもし、これが彼自身との闘いの中に没頭している結果なのだとしたなら。
それは、彼らしくないのではないだろうか?
どのような状況に於いても僅か数秒を削る選択を採るのは、Siriusが狩りに於いて最高の狼であることを鑑みた時に、少し奇妙に思えてしまったのだった。
まだ走った記憶の新しい下り坂を一気に駆け抜けながら、俺は彼の狙いについて、必死に考えを巡らせた。
「違う…Siriusは、やはり俺に、勝ちに来ている!」
結論すると、彼は俺のことを、自分が思うよりも高く見てくれているのだと分かった。
彼は、俺の勝ちの目を、僅かであっても潰そうとして来ていたのだ。
恐らく、背後の呼吸の様子から、脇道への飛び込みのタイミングを狙っていたことを察するのは容易かっただろう。
そして嬉しいことに、俺が上手く走り切るだろうと、期待してくれた。
喩えどれだけ難解な路面状況であっても、必ずベストな脚の接地を最後まで繰り返してくれる、と。
即ち、逆転する。
Sirius自身も、レースの後半における巻き返しが困難であることは、当然認識していた。
道を譲れば、十分に負け得るのだ。
ならば、我が行こうぞ。
主のようには、上手くは捌けぬかも知れぬ。
だが、此処で主に大きく水をあけられるぐらいなら。
「肉を切らせて…という訳か。」
現に俺は、この易しいコースを一匹で、実に平凡なタイムで走らされている。
僅かにSiriusは手こずったとしても、そのビハインドは、俺が大成功を収めた時の差に比べたら、十分に挽回が可能な範囲に留まるのだ。
貯金は崩しても、追い抜かされなければ良い。
「流石だ…」
本気で、俺に勝とうとしてくれている。
再び合流点に二匹が飛び込んだ時、俺は全身を撫でる感動の鳥肌で震えた。
「ああっ……後ちょっとで…!!」
俺の骨は、見事な戦略によって断たれた。
互いが別々の道へ飛び込む前に比べて、差こそ縮まってこそいたのだが。
またも、先行したのはSiriusだったのだ。
逆転劇は、見事に阻止されてしまった。
「ハァッ……ハッ…ハァッ……!!」
彼は口の中で上下に舌を弾ませながらも、瞳を微塵も苦痛で濁そうとせず、主流の獣道へ突っ込んで来た。
平坦な道を歩んでは来なかったと見える。
左の後ろ脚が、泥塗れになっていることに気が付いた。
恐らく何処かで、泥濘に大きく突っ込んでしまったのだろう。
続行不能の危機に、Siriusは大層焦ったに違いない。
巻き返されると、半ば諦めたかも知れない。
そのアクシデントがあった上で、このタイム。
…速すぎる。
「存外…老体も動くものだな。」
益々と調子が上がってきているのでは無いかと思えるほどに、口の端は笑っていた。
楽しくて、堪らないのだろう。
きっと、あのオ嬢様との遊びでは味わえない興奮に、震えている。
俺も、同じ気持ちです。
感涙の余り、息が詰まりそうだ。
ああ…益々、貴方が眩い。
こうして、俺は一縷の望みを潰され、未だ後塵を拝したままでいる。
「くそっ…!!」
残りはもう、半分もない。
俺たちは幾度も、たっぷりと水を吸った泥の落とし穴を乗り越えた。
Siriusはやはり、地面のそれを瞬時に見分ける選球眼がある。
彼は俺よりも早く、そして軽々と危険な接地を回避して深みを飛び越えて見せた。
その動作にも、熟練の技巧が光った俺は溜息をつきそうになる。
対空時間をできる限り短くし、沼面すれすれを飛ぶことを続けられては、俺はその隙間に飛び込むことさえ叶わない。
巨大な水溜まりに差し掛かると、二匹は左右に分かれる。
越えられる距離まで脚を水の中に浸して走り、それぞれが逆サイドに向って一気に飛翔した。
交差するとき、俺たちは一瞬だけ、重なった。
だが、俺の方が高く飛んでいる。
これでは、着地が遅れて、追い越せない。
口を半開きにしたまま、真っ直ぐに前を見つめるSiriusを、俺は気にしてばかりだ。
追い付いたと思っても。
並んだと思っても。
どうしても、その背中を、越えられない。
いや、寧ろ。
片時も忘れず一緒に走った影が、離れていく。
大きく蛇行するたびに、彼の姿は消え。
再び姿を現すまでの時間が、少しずつ長くなる。
遂には、見失いかける。
「あれかっ……!!」
微かに、彼の尻尾を視界に捉え、これ以上離されてたまるかと無理やり身体のうねりを大きくする。
しかし、それはSiriusの尻尾では無かった。
それは、棚引いて、消えたのだ。
「……!?」
な、なんだ…今の?
再び直線に戻り、今度はSiriusを大きくとらえることが出来るようになる。
「あ、ああっ……!」
その時、俺は彼の毛皮が、青白い光を纏っているのを目撃した。
後ろへと靡いて、それが翼のように、彼を前へ前へと羽ばたかせる。
冬の夢の中で見た、いつまでも、疲れを知らずに走り続ける大狼の影。
その姿が、現実となって。
この森を駆けている。
どうして、追い付けない。
その疑問が氷解し、俺は自分の脚の動きが鈍くなっていくのを察知した。
何とかついていけているという誇りだけで保っていた。
張りつめていた糸が、切れかけている。
「出せない…」
あの光は。
遂に完全となった大狼が放つ、青白い炎は。
俺の中には、無い。
我が狼の内で、燃えてはくれない。
Siriusは、更にもう一段、ギアを上げる。
俺との勝負は、終わった。
限界まで、彼自身との対話を尽くすつもりだ。
もう、彼の意志の中に、俺などという狼はいない。
「…………。」
それでも、俺は惰性で走り続けた。
最後まで、止まらないことが、良い仔のすることであるような気がしたからだ。
でも、涙で前方も朧なまま。俺が殊更苦しそうな表情でゴールを通過した時、
彼はどんな表情をするだろう。
想像したく無かった。
優しく微笑み、選び抜いた労いの言葉が、俺を刺すだろう。
それでようやく、知ることになるのだ。
俺は、貴方を見上げて慕うことさえも、烏滸がましい存在であったこと。
超えるなんて、
近づくだなんて。
……。
僕には…。
僕には、できない。
「……。」
接地した肉球を、著しい違和感が襲う。
もう二度と、俺は今のように走ることは出来ないのだろうと、この時ふと思った。
虚栄の完全は、終わったのだ。