119.才能の試練 5
119. Test of Talents 5
もうこの狼は、同じ失敗を繰り返すことはしないだろう。
沼に足を取られて、体勢を崩すようなことは、万に一つも、あり得ない。
明瞭な差を以て、彼を追い抜かねばならない。
そうと勝ち筋を見定めた時。
仕掛けられそうなポイントは、一つしかなかった。
「あの、分岐点だ…」
Siriusも当然、頭の片隅で意識しているだろう。
左手を川沿いに沿って走る進路が、近道であるのだった。
しかし生憎、雪解けによる増水で土砂崩れが起き、倒木が幾つか発生している。
元々、丸くてごつごつとした岩が敷かれて路面はお世辞にも良いとは言えない。
その為、Siriusはこの道を往路では選ばなかった。
このまま恐らく、右手に大きく膨らんだ迂回路をもう一度辿るだろう。
それが最善だ。一刻を争う事態であるとは言え、わざわざ危険を伴う走路を選ぶ必要はない。
時間との闘いなのではなく、俺との勝負に徹して、そうするだろう。
俺に前さえ譲らなければ、目的は達せられる。
つまり、俺に、選択権があるのだ。
彼について、迂回路を走るか。
リスクを取って、危険な近道を通るか。
俺は…前者では、恐らく勝てないと踏んでいる。
此処を逃してしまえば、もうトップを奪回するチャンスは無い。
じりじりと離され、最後には後ろとの差をしっかりと確認されながら、ゴールテープを悠々と切られるだろう。
だからと言って、後者を選んで、勝てるという確信がある訳でもない。
近道とは、距離だけのことを言っているに過ぎない。
川沿い特有の路面の悪さは、致命傷には至らないかも知れない。
既に普通の道でさえ、酷い泥濘になっているのだから、もはやどっちを選んでも意識して足を運ばなくてはならない。
しかし、問題は、その土砂崩れが生んだ不足の事態によって、俺の行く手を大きく阻む可能性。
倒木の一つや二つ、問題にはならないだろう。
だがもし、土砂崩れが完全に、獣道を塞いでしまっていたら。
新たに起伏を孕んだ地形を超えるとなると、骨が折れる所では済まない。
踏破しようとする獣の体重は、相当なものだ。いつ落とし穴が口を開くか、予測するのは難しい。
怪我をするまでは、行かないだろうが、その時点でゲームは終わる。
それを承知の上で、だ。
Sirius。私の憧れの狼よ。
胸の中で、彼の呼びかけを真似て呟いてみる。
俺は、心の隅で、勝てないだろうと思っています。
きっと、納得のいく差を以て、後塵を拝するだろうと予感しています。
最後には、思った通りになるものです。
ですが、それを貴方には悟られたくないな、とも思うのです。
初めから負けるつもりで挑んで来ているだなんて、きっと貴方を失望させてしまう。
できることなら、全力で挑んできて、自分を驚かせ、喜ばせて欲しい。
そう思ってくれているのではありませんか?
応えたいのです。
言ったでしょう?
貴方の前では、完璧な狼のフリをしなくてはならないと。
それが、表面上のやる気なのだとしても。
喩え、失敗に終わって、情けなくても。
貴方に果敢に挑んだという行動だけが、残れば良い。
Sirius。貴方に勝つ意志があると、示したい。
子供っぽいですね、自分でもそう思います。
けれど、そうと知って尚、褒めてくれますか?
合流点で、また逢いましょう。
もう一度、暫しのお別れです。
最高の走りを貫かれることを、祈っています。
「はぁっ……んっ…はぁっ…!!」
3kmを過ぎた。長距離走に於いて、第一波に当たる。
そのままの走りはもう続かない。一度、苦痛を受け入れたうえで、続行することを選ばなくてはならなかった。
余裕をもって波打たせていた胴も、なるべく揺らさぬようにと省エネの動きに最適化される。
舌も垂れて、体内の熱を少しでも吐き出そうと空を舐めた。
Siriusにも、僅かに同じ兆候が見て取れた。
左脚の様子が、変わりつつある。
脚が地面から離れるのが、俺のイメージよりも、僅かだが遅い気がする。
完璧な狼の走りを想定したならばの話ではあるが、それが自分には見逃すには惜しい綻びであるように見えたのだ。
良かった、貴方が本当に、生きている証拠だ。
とは言え、そう微笑む余裕も、実はあまり残っていない。
瞬く間に、運命の分かれ目が近づいて来る。
分岐路に、看板は無い。
枯れかけて表皮が禿げた松と、そこから三つ並んだ切り株が目印だ。
Siriusの左耳越しに、疎らとなった白樺林の奥を見据え、舵を切る瞬間をじっと待つ。
もう少し。
焦らなくて良い、呼吸を整えろ。
逸れて袂を分かつのは、難しいことに属さない。
一匹になってからが、勝負だ。
……。
……今だっ!!
「……っ!?」
「わうぅっ……!?」
俺は慌てて浮かせた左前脚で地面を叩き、反動で左折のための身体の傾きに待ったをかける。
「くっ……!?」
次に踏み出す筈だった右脚が縺れ、危うくつんのめりそうになるが、なんとか堪えた。
「グッ……グルゥッ……!!」
一瞬、何が起こったのかが理解できずに、慌てて四肢がばらつく。
ぎりぎり体制を立て直した頃には、俺は近道に飛び込むタイミングを逃してしまっていた。
「嘘だ…ろ……?」
「い、今……」
そして、目の前の視界は、開けていた。
俺は今、Siriusが走る筈だった道筋を走らされている。
「消え……た…?」
そう。
Siriusが、いない。
「曲がった…だと…?」
逆転の希望と、惨敗の絶望を孕んだ、
荒廃の近道の入り口へと飛び込んだのは、俺ではなく、Siriusだったのだ。
視界を遮ったのは、彼がバランスをとる為に振った尻尾だった。
全く同じタイミングで、彼もまた、左に身体を倒していたのだ。
「ど、どうしてSiriusがっ…!?」
主導権を握っている側の狼が、
何故、道を踏み外したんだ?