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118. 踏み外した一歩 5

118. Tragic slip 5


喩え賢狼であろうとも、涙腺をめちゃくちゃに壊された彼が、今の話の全てを理解したとは思わない。

半開きの口は、未知の世界に沈黙しようとする慎重な態度によるせめてもの抵抗であることが読み取れた。

喜びを身体に表現させることにも、絶望に打ちひしがれることにも、一歩踏み出せずにいる。


きっと辛うじて届いたのは、次の二つだけなのだった。


彼は自分の牙によって、Siriusを地獄へ突き落としてしまったこと。

そしてその大狼は、とある少女の奇跡によって、この世界に戻って来たこと。


それが、二匹の狼の間に起きたことの全て。

神様の世界を生きる大狼の物語。




「彼女は……」




Hel(ヘル) は…」




「我々を、救ったのだ。」




Siriusは、少しの盲目さも伴わず、慎重に言葉を選びながらも、そう言い切った。


あの娘に、捨て置かれた世界を救おうという自覚があるのか。

それは誰にも分からぬ。


しかし、誰の目から見ても、少なくとも藁の上で目覚めた我らにとっては、

大義であることには、何の変りもないのだ。


もし彼女の内に、そのような使命感が芽生えていたのなら。

ああ、なんと優しい女神様であろうか。


もし彼女にそんな意志が伴っていなかったのだとしても。

やはり我々は、幼子に博愛の純心を見出すであろう。




「だが…。」




「だが…それと、この生身の身体とは…別の話であるのだ。」


きつく目を瞑り、苦しそうに呻いた。

彼に両手があったのなら、艶があって皺のないそれをしげしげと眺めて、信じられないと何度も握っては開くことを繰り返したことだろう。


そんなこと、有り得なかったのだ。




「このような、損ないの狼に、生を与えるなど…」




「分からぬ。我には…」




彼もまた、Fenrirの毛皮の感触を確かめようと、強く、そして優しく自分のそれを押し付けているように見えた。




「…分からぬのだ。」




「これは……。」




「‘愛’、であるのか……?」




彼女の死者に対するそれを博愛と呼ぶのなら。

これは偏愛、特別な想い。


狼への愛情。




藁の上での永い眠りから醒め、それから彼女への謁見を果たした屍の住人は、数多くおった。

ああ、人間のそれには、事欠かなかったはずなのだ。

その中に、この娘の母親の面影を見出すことなど、難しくは無かっただろうに。




それなのに、なぜ彼女は…


ヘルヘイムという、冷え切った世界を一緒に生きる、唯一の友として、


狼を…


我を、選んだのだ?







「何故、我だけに……?」



世界の一端を担う力までも、こうして与えてしまった。



幾人でも、幾匹でも、従わせることができただろうに。



どうして、我だけに?




「Hel の遊び相手に、自信が無い訳では無いのだ。」


この年頃が欲するものはある程度、心得ておるつもりでな。

生前、随分と苦労させられたからのう。




「柄にもなく、あくせく世話など焼いておる内に…」




「いつしか、情が移った。」




「あの娘は……。」




「あの仔と……。」




「同じ匂いがする。」




Siriusは、そう微笑むと。

これは余計なことを口走ったかと呟き、視線を遠くへ、投げかける。







「しかし、たとえ生きていようと、死んでいようと。」


「彼女の意志に、触れることは、やはり叶わぬのだ。」




生かされたことを、感謝して良いのか。

恨んで良いのかすらも、我には答えが出せぬ。




しかし、Hel が、我の背中に乗るのを好いてくれるのなら。

我と他愛もない遊びを延々と興じることを、楽しんでくれるのなら。







我は、己の意志を、曲げぬのだ。







「……。」




「この話は、もう終わりとしようぞ。」


彼はすっくと立ちあがると、自分の首元を押し付けていたFenrirの毛皮の凹みを鼻先で優しく摩った。




「さあ。半身転がって、起き上がると良い。我が狼よ。」




主の罪の意識を少しでも晴らさんと、こんな長話を挟んでしまったな。




赦してくれ。

我もこやつも、主が一匹で泣き荒ぶ姿など、耐えられぬのだ。







「そして、一つだけ未練がましく、主に伝えようとするならば。」




「我は主との逢瀬が叶って、この上なく幸せであるということだろうか。」




「……っ…うぅっ…うわあ゛あ゛っ…うあぁっ…うわああああ……」





「しっ…しりうずぅぅっっ……!!」




「シリウスゥゥゥゥ……!!」




「うわあっ…うわああああああああん…………」




Fenrirを、泣き止ませるのでは無かったのか。

そう疑問を抱かずにはいられないほど、その一言はこの狼に、

強く、強く響く。




彼の苦しく平坦な一生を、やっと肯定して貰えたも同然なのだから。




やはり彼は、この大狼のみによって、生かされていたのだ。


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