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118. 踏み外した一歩 3

118. Tragic slip 3


新たなる大河の誕生を見ているようだ。


無防備な姿勢で寝ころんだままのFenrirの瞳の淵からは、いつもとは異なる道筋で涙が流れ落ちていく。

彼らは時折、大胆に仰向けに眠ることを心を解くためにする癖に、それが不安定な姿勢であることをあまり理解しようとしない。毛皮をふんだんに蓄えた背中は、彼が狂った咆哮を上げるたびに揺れ、そのたびに水滴は毛皮の道筋を失い、額の上をでたらめに滴り落ちていったのだった。


耳を塞ぎたくなるような慟哭も、段々と聞き苦しく掠れてしまう。

喉は散々に破け、狼の声を必死に絞り出すその様は、Garmと寸分違わないのではと思った。


彼らは、入れ替わったのだ。

そんなアナウンスが流れたとしても、途中から席に着いた観衆は信じることだろう。


もし、Garmの愛した少女が、不運にも命を転がしてしまったなら。

この大狼はこのようにして哭くのだろうと、容易に想像が出来たからだ。


復讐に、我を忘れることさえもしなかっただろう。

ヘルヘイムに孤独に産み堕とされた狼にとって、彼女は唯一故に最愛の群れ仲間だからだ。


彼を再び襲う影は、また一匹で地獄を歩き続ける永遠。

その恐ろしさの方が勝る。

復讐なんて、孤独な狼では無し得ない。


負け犬の遠吠えとまでは言わないが。

鎮魂を切に願って、眠れぬ夜を吠えるしか、ないんだ。




君も、そう思うだろう? Sirius。

それが、人間と狼で、違うところだ。


彼は、何も答えない。


ぼやけた視界の端では、俺が最も慣れ親しんだであろう大狼の召喚が、いつまでも佇んでいる。










どれほどの時間を、彼に泣かせていたのだろうか。


少なくとも俺は、もう殆どひゅーひゅーと息の漏れる声しか鳴らさなくなっても、衰えることのない勢いで泣き叫ぶ彼のことを、慰め、起き上がらせようという気概に欠けていた。



真実を告げることに、凡その力を使い果たしたからだと思う。

拷問は、終わった。

全部、吐いたのだから。後はもう、どうとでもなれば良い。


少なくとも、俺はもう、解放されて良い身分のはずなんだ。

それが、捕虜の言い分だ。


俺は冷えて固まってしまった沼に着いた膝を動かせず、その場から抜け出せない。



俺が、泣き止ませてあげなくちゃならないのに。

自らの唯一の役目を放棄した、という罪の意識はなかった。


我が、代わりを務めん。そうSiriusが動き出したのに気が付くまでは。







彼には、狼の言葉を超えて、Fenrirの慟哭の一言一言が聞き取れているかのように思えた。


Siriusは唾を飲み込むこともしない彼の喚き声にじっくりと耳傾けていたが、ある時、徐に顔を上げて、声の主のことを見つめたのだ。


そして、この悲しみの塊を拾い上げられなかった沼面を、ただ一匹、四肢で揺らすことを決意する。




「……。」




疲れ果てることを喉だけは知らず、永遠と泣き喚くFenrirのことを、

Siriusは水面をそうするようにして、じっと見降ろした。


彼を、どうするのだろう。

呆然とそれを眺めていた俺は、答えを聞かされるまで、頬杖をついて座る学徒のような面持ちで、口を開けて動かないでいた。



一瞬、彼は、Fenrirのことを楽にするのではという疑念が、ちらとだけ脳裏を掠めた。

彼の内に、未だGarmの本質が残っていたような錯覚に捕らわれたからだ。


もし仕返しが転じて、その心がFenrirにある種の優しさを投げかけようとしたならば。

彼はそっと大狼の首を食いちぎって、音を消してもおかしくはない。




それも良い。

などと思えるほどに、俺は観衆として胡坐をかいていた。




「……。」




恥ずべきだ。




「……?」




Siriusはそのまま身を伏せ。

自分の顎の下を、Fenrirの首元にぽんと置いただけだったのだ。




「アウッ……?アウッ……アウゥ……。」


Fenrirは、突然喉元に及んだ毛皮の感触に、ひくっと変なしゃくり声を上げる。



あまりの呆気なさに。

充実した敗北感があった。


この大狼は、狼のあやし方を誰よりもよく心得ていた。

それでいて、もし自分の姿が、彼と同じように立派な毛皮で包まれ、手の平を持たなかったなら、確かにそのようにしただろうという納得もあったのだ。


答えが、己の内に輪郭だけでも抱えられていたのなら。

近づこうとしなかった、ただその勇気の欠如が、悔やまれて。

俺をSiriusという狼を遠くから眺めるだけの人間にしてしまっている。


そう。嫉妬にも似ていて、どういう訳か、負けたとだけ思った。







「……。」


彼は、何も言わなかった。

少なくとも、Fenrirが本当に泣き止んでくれるまで。

俺は、Siriusが囁くのが聞こえなかった。




「ありがとう。」




「泣いてくれて。」




「泣くのを止めてくれて。」




「……っ。うっ…ぅあああああああああーーー………。」




「……。」




Siriusは微笑み、眼を細めて、首元に鼻面を埋めるだけだった。







「何も、主が悲しむことはないのだ。」




「主が喩え、我と相見えぬ運命であったとしても。」




「我は、この森で、たった一匹で横たわりに、息絶えていたであろう。」




「一緒にっ……いだがっだああああああああああっっ……!!!」




ようやくと言葉を紡いだ直後に、Fenrirは激しく咳き込み、Siriusを戸惑わせてしまう。




「それは、今だから言えることだ。」




「心中にに秘めていたことは、互いに同じであっただろう。」




「主も、我も……。」




「でもっ……でも、俺がっ……俺がぁー-っ!!」




「貴方を…楽園にぃっ…向かわせてぇ…あげら、れた…はずなっ、のにっ……。」




「おーろら、のっ……上おぉ…歩かせて、上げられたのにぃぃぃっ……」




「俺はあぁっ……だだ貴方を苦しませただけでぇ……。」




「地獄へ……突き落としたんだああああああああああっ……!!!!!」




「あ゛あ゛っ……うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っーーーーー……。」




「……。」







……そう、だろうか。




そうかも知れない。




けれども、我が狼よ。




聞いて欲しい。




「存外、地獄とは……そのようでは無いのだ。」




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