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117. 水底の星 2

117. Nadir Sirius 2


駆け付けた大狼の背後で毛先を膨らませた尻尾がゆっくりと萎れ、やがて垂れていくのが分かった。


彼は、今までで出逢った中で、一番恐ろしいものの存在を目にしている。

それは、この神話の怪物を狼たらしめる為の、たった一つの希望であり、生きる意味。




Fenrirの、すべてだった。




狼の挨拶はおろか、声を掛けるのさえ躊躇われたのだろう。

彼は一度口元を舐めようと舌先を見せたが、内心を悟られまいとすぐにそれをしまい込む。

いつまでも閉口し、この大狼だけに声を上げさせてはならないのに。


信じられなかったのだ。

あの大狼と、牙を突き立て合う中で感じていた、予感が。


あり得ない。何故なら、貴方は。




貴方は。




貴方は、私が。




「……。」


首を緩く振り、瞳を何度も(しばた)かせ。震える息を、彼と同じような長さで吐き出す。


そして俯き、水面で揺れる鼻面を見つめたのだ。


次に顔を上げる決心が、一生つかないかと思われたが。


貴方を、見たいと顔を上げ。




悠々と佇むこの狼の名を、恐るおそる口にする。




「Sirius……?」




「’シリウス’ なのですか……?」




彼はどんな表情で、Fenrirに応えたのだろう。

僅かに首を傾げ、人間には分からない仕草で、きっと優しくそうだと告げたのだ。

そうだと辛うじて分かったのは、きっと初めてあうその狼に見覚えがあったからだ。




「シリウス……。」




もう一度だけ、そう口にした直後。

Fenrirはぺたんと尻を地面につけ、大きな赤子のようにその場に座り込んでしまう。




「うあああぁぁぁぁぁん……。」




そして、大声を上げて、泣き出したのだ。




「うあ゛あ゛あ゛っ……。ああぁぁっ、うあああぁぁ……。」




「シリウスだああぁぁぁぁ……。」




「本物だあ……。本当にぃっ…本当にシリウスだあぁ……!」




「うわああああぁぁぁぁぁぁ……。」




「しりうすぅぅっ……うわああぁぁぁぁぁぁん……」




「……。」




それを、黙って見守ることしか選べない。


Siriusも、俺も。


きっと、泣かせてあげたいと思ってしまったのだ。


やっと、出逢えたのだから。






幾らでも、泣いたらいい。

ずっと、待っていたのだから。




俺が同じ時間をかけて、再会を果たしたとしても。

君はきっと、こんなに胸の痛む泣き方はしないだろう。

そんな確信が、俺にはあるよ。




「どうしてぇっ……どうして、Siriusっ…」


「貴方がぁ……あ゛あ゛っ……ぁっ……」




もう、Siriusという狼の名を口にしただけで、彼の心はぐちゃぐちゃに搔き乱されてしまって続かない。

えぐ、えぐと喉元から嗚咽を漏らしながら、ようやくFenrirは辛うじてそう聞き取れる言葉を紡ぐ。


空を仰いで決して枯れぬ噴水のように、涙と鼻水をだらだらと流し続けている。

涙を拭き取ることも叶わない彼は、毛皮を擦って慰められるか、そうでなければ、その声を掛けて貰えるのを待っていた。



「おお…。どうしようかのう、主よ。」



その言葉には、努めて老獪な狼であろうという彼の姿勢が読み取れた。

Siriusは同じようにへたり込んでしまっていた俺の方を一瞥すると、その役割として相応しい人物を直ちに言い当てたのだ。


「この狼に、我の言葉は…ちと心にさわり過ぎる。話を聞きとるだけの余力が、割けぬであろう。」


「故に()(なた)から話してやるのが、彼が耳を傾けるのには、良いのではなかろうか。」


「……。」

実際、その通りだった。

Fenrirは彼の一挙手一投足に自分が憧れた所作を見出し、その度に目をぎゅっと瞑って大粒の涙を零していたのだから。

もしそんな狼の懐かしい語り声を延々と聞かされていては、もう気が狂ってしまうと堪え切れず、その場から逃げ出してしまうかも知れないとさえ思った。


無言を是と捉えたのかSiriusはゆっくりと足を滑らせ、Fenrirと俺との間の視界を遮らぬよう、華麗に脇へ避く。

そのようにして照明を譲るのが、極めて演劇的だなと思った。

そしてそれは直ぐに、Fenrirが頑張って真似をしていた立ち振る舞いそのものだと思い当たってしまう。

それが健気であると感じるよりも先に、余りにも彼そのものだったことに、俺は寒気を覚えた。


「えぅっ…?…うわあぁっ…ああぁっ…あぅぅ……。」


Fenrirはそうして設けられた自分と俺だけの舞台にも拘らず、

Siriusのことだけを、失礼にならぬよう、しかし穴のあくほどに見つめて、呆然と泣いている。




…そうか。




つまり、次に来る台詞は、自分だった。

やっぱり俺は、最初から、言わなくちゃならなかったんだ。



別に、隠していたつもりは無かったんだ。

そう言うと、言い訳がましく聞こえるかもしれないけれど。

Fenrirが知らずに済むのであれば、俺はそのままでも良いかなと、

彼の幸せを願いながらも、そう思うことにしていた。



「Fenrir……。」



良く似ているのではない。

Siriusとは、Fenrir自身であるなどと、

軽率に口にしてはどうだろうか。



最早彼の毛皮は貼り合わせたように不揃いなそれではなく、

瞳の色や、声音。それから尾の仕草はとても見分けがつくものではなく。


一度彼らが毛皮を擦りつけ合って触れ合ったならば、もうどちらを言い当てる術は、傷跡と口調以外に残されてはいないように思えた。




俺はもう一度唾を飲み込み、血の味がする唇を舐めると、

震える声で、只一人の観客に不快と誤解を与えぬよう、語り始める。




「ヘルヘイム。」




「そういう名前の、()(ごく)がある。」







「Siriusは…’底’ から、やって来たんだ。」


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