117. 水底の星
117. Nadir Sirius
森の中を慣れた足取りで駆け巡る謎の四つ足。
そいつの足跡が泥濘の中に瞬く間に溶けて消えてしまうのは、惜しいことこの上なかった。
消息を絶ってしまうような失態こそ起こり得ないものの、その獣がどのような姿かたちをしているのかを窺い知るのに、これ程重要な手掛かりはないと言うのに。
それは、どんな悪い路面もがっしりと捉える大きさか?
肉球の間は長い毛先に守られているお陰で、氷に張り着くこともないか?
…何より、狼たるに相応しいか?
予感というよりは、期待に近い。
そいつはぐるりと近辺の獣道を巡察すると、両脇へと過ぎ去っていく景色に満足したのか、
元居た位置へと進路を変えているのが分かった。
Teusと袂を分かった戦場の跡地へと、戻っていく。
完敗と言っておこう。遂に俺は、彼が立ち止まるまで、距離を縮めることが出来なかった。
その正体は、開けた沼地へと舞い戻るまで、尻尾さえも拝むことが叶わなかったのだ。
「はぁっ…はぁっ…はぁ……!」
この俺が、息を切らすだなんて。
「……。」
呼吸を荒げまいと体裁を整えつつ、ようやく追いついた先で。
彼は尾を此方に向け、佇んでいる。
前脚を開き、頭を恭しく下げて、前方を睨んでいた。
遠くまで見据えた、警戒の姿勢。
恐らくは、彼方も期待しているのだ。
何かを、口に咥えている。
それを最初は、彼が苦労した振りをして喜ばせていたあの少女だと思った。
しかし、彼は既に彼女と行動を共にすることは止めていたようだ。
もう、隠れる側に回っていたらしい。
想像より遥かに難儀するのだろうな。彼女が見つけられずに飽きてしまうか、或いは拗ねてしまうことが無い程度の、ほどほどに難しい場所に隠れなくてはいけない。
かと言って、これ見よがしに木陰から尻尾を振って遠回しに位置を知らせてしまうと、察しが良い彼女は寧ろ機嫌を損ねてしまうだろう。
ひょっとすると、手ごろな時間で遊びを切り上げられるよう、彼女の知らぬ間に隠れる場所を移動するのかも。
そんな至れり尽くせりも、狼にとっては造作もない。
この森に於いて、彼はどんな生き物よりも自由だ。
それでは、四肢をだらりと下げているそいつは何だろうか。
一瞬、腹の辺りがすっと冷えるような予感に襲われる。
あれが、既に獣によって仕留められた人間であると錯覚したのだ。
余りにもあっけないが、俺はいとも簡単に彼の誘いに乗り、無防備なこいつをあっさり森の中で晒したのだ。
それが初めから彼の狙いだった訳では無いのは、彼が誰よりも少女の遊び相手を続けることを優先していることからも明らかだ。
しかし、道中に転がっている喰い物を、腹の空かせた怪物が見逃すはずがない。
今になって思えば、距離を開けられたままで、どうして焦りを覚えなかったのかと不思議なぐらいだが。
純真に追いかけっこを楽しんでいたと言うよりは。
…やはり、俺は彼のことがどうでも良くなってしまっていたのだと思う。
やっと取り返しのつかない最悪の事態が想像されて、俺は息が詰まった。
しかし、それも違うとすぐに分かる。
「……。」
間抜けなお人好しの神様は、そいつが顔を近づけた先で、沼の中に無様に尻餅を突き、呆気に取られている。
茂みから飛び掛かられて、腰を抜かしたのだろう。俺に森の中で散々驚かされ続けてきた癖に、情けない奴だ。
そう、その獣が口に咥えていたのは、本当にただの獲物であったのだ。
奇跡的に被爆を免れた、一頭の牡鹿に見える。
もう確信は無かった。自分に欠色と同じ兆候が全くない理由など、どうして見つけられようか。
そいつを沼の上に無造作に横たえると、獣はようやくと首を擡げる。
大きく伸びをすると、全身の毛皮をぶるぶると震わせ、最後に尾の先までくるりと揺らした。
そのイメージが、自分の背後を見ているようで、俺は第一人称の視点を失った夢の中で狂わされているような感覚に襲われた。
まさか。
まさか、本当に。
感極まったのだろうか。
彼は大きく息を吸い込み、吐く息を震わせる。
しかし振り返ると、
あの時と一切の変わりない声音で、朗々と唄ったのだ。
「久しいな……。主よ。」
「水底の星。」
「我の、現身の狼よ。」