115. 灰の匂い
115. Scent of Cinder
当然、彼と行動を共にすることが正解であっただろう。
こんな時、離れ離れになってはならない。
敵の位置は不明。正体は愚か、掴める尻尾が生えているのかさえも、分からない。
そうと冷静に脳裏では判断出来ておきながら、俺はTeusと探索を共にすることを怠った。
なりふり構わず、音の主だけを確かめるべく、深追いすることを選んだのだ。
ああ、そうだ。
本音を言わせて貰えば、一瞬たりとて、今だけはこいつの傍にいたくなかったのだ。
何故、Garmは殺されなくてはならなかったのだ。
それは果たして、本当に自分自身の命よりも優先されるべきことだったのか。
他に、選べる道は無かったのか。
答えの出ない問が、頭の中で堂々巡りする。
その苦しみを彼と共有するのは、無駄とは言わない。
しかし傷の嘗め合いであり、今は時間が惜しいと思ったのだ。
ザッ…ザザッ…
パシャ…バシャン…
ダンッ…タタンッ…
足音の主は、相当に泥濘んだ獣道を走り慣れているらしかった。
これは前提として俺達の根幹にあることなのだが、天候に激しく左右されるような森の回廊を、獣道として選ぶことをしない。
頻繁に通る。だからこそ、しっかりとした目印があり、安定したタイムを残せるルートとして仲間内で活用され続けるのだ。
単にお気に入りの道であるというのもあるにはあるのだが、それは飽くまで二の次。狼の言葉でも語り尽くせぬ趣向でしかない。
俺達に許された、専用通路と言っても良いだろう。
それは誰しもが通りやすくとも、捕食者にとって常に有利に働かねばならなかった。
俺たちはその道を走ることを誤って選んでしまった獲物に対して、莫大な情報アドバンテージを得ることができるようになる。
その先の何処で、追いかけている標的は息切れを起こすだろうか。
休むとしたら、何処だ?その為にいつ、道脇の茂みへ外れたがるか?
全て獣道においては、お見通しなのだ。
頭じゃない、身体に、呼吸に刻み込んであるのだから。
勝手に相手は、走りやすい道だからという理由だけで、罠に嵌っているも同然なのだ。
何が言いたいかというと、それは狼にとって予め走りやすく舗装が為されており、目の前に明瞭に敷かれているレールというだけではないということ。
獣道とはそれだけ、眼にすれば安心してしまうような道。
迷い仔ならばほっと胸を撫でおろし、空腹の一匹ならしめたとほくそ笑む。
そう。同業者ならば、気づけば勝手に合流している道。
間違いない。こいつ……
「’狼’ だ。」
そして、敢えて言おう。
相当に、知悉していやがる、と。
「……。」
ぶれないコンディションを提供してくれていると分かっている、信頼のおけるコースを走ったとき。
余所者と縄張りの主との間で、走りにどんな差が生まれるかと考えたなら。
「なんてやつだ……。」
俺は、そいつを追う側でありながら。
半ば、追い詰められていたのだ。
こいつに、分かるはずが無いのだ。
雨上がりの小丘を下りきった窪地は、冠水していないように見えて。
実はたっぷりと泥が水を吸っているせいで、意外に足が泥濘へ嵌ってしまうことを。
初めはよく間違えて足を突っ込んだ。
沼地は得意だから、それ程深みに引き込まれずに済んだが、普通であれば身動きもとれなくなるぐらいには勢い良く沈む。狩りの最中であるなら、それは天然の罠と言っても良かった。
…何故だ。何故ひらりと四肢を蹴って飛び上がり、局所的な軟泥を飛び越えやがった?
その先の二股の獣道は、二手に分かれて、川沿いで再び合流する。
右手は近道であることを察知するのは、土地勘に優れていれば容易いだろう。
だが生憎、雪解けが齎した土砂崩れによる倒木で、通行止めに合っているのだ。
これは俺も最近になって知ったことだ。
今だって、走れないことは無いだろうが、川沿いの道は雨で滑りやすくなった岩肌が露出していることが多い。
こんな天候では、迂回が吉だ。喩え、強靭な爪を持っているのだとしても、路面を荒らすのは後続によろしくない。
…どうして迷わず、左の道を選ぶ?
おかしい。
風の匂いを読み取り、足元をじっくりと観察するだけの余裕があるのだとしても。
それだけでは説明がつかない。
地の利が、通用しない。
奴の身体には、最新の情報が更新済みなんだ。
「有り得ない…」
予想だにしない事態だ。
この追跡は、夢の中よりも思い通りに進んでくれなかった。
全く追い付けないどころではない。
寧ろ、離されかけていたのだ。
俺が、満身創痍であるからなのか?
首元で漏れる酸素をかき集めても足りず、そいつを体中に運ぶ血液も尽き欠けているからなのか?
だが、もしそうだとして。
その差を埋める筈の地元走りが通用しないことが納得いかない。
直ちに予測することが出来たのだとして。
この俺が引けをとって良いはずがないのだ。
こいつ…
何者だ?
その走者の動力が、唸り声のようなものを上げるのだとするならば。
そいつは、俺と同じ音を轟かせている。
搭載しているモノが、この森に於いて最高峰。
峠仕様、と言う奴だ。
つまり、持てるスピードも、スタミナも、全部同じ。
...持って生まれたものは、等しく差が無かったのだ。