113. 銀弾 4
113. The Silver Bullet 4
己の内など、ひっくり返ったって、そうそう簡単に見られるものではない。
人間の姿ならまだしも、狼にとっては。
「う、そだ……。」
Garmは、自分の毛皮の薄い腹の底に溜め込んでいたこれらを、知っていたのだろうか。
抱え込んでいた自覚があったとしか、思えないのだ。
どれほどの重みを。彼の身体、一匹で。
「こ、んなの……。」
どのように言い表せば、誤解ないだろう。
言ってしまえば、この大狼の腹には、幾多もの乳房がぶら下がっていたのだ。
雄狼である彼が、乳を蓄えているということ。まずそれ自体が奇妙な筈であった。
しかし、湧いて当然の陳腐な疑念は、入り込む余地も与えられない。
「…うっ…うあ……ああっ…。」
俺はただ、彼が姿かたちを大狼と同じくする為に払われた犠牲に、咽び泣くことしか出来なかったのだ。
一つひとつの膨らみが…狼の顔の形をしている。
Garmという母なる狼から、幾匹もの狼の頭が突き出て、腫れあがっていたのだ。
様々な方向を向いた一頭一頭の顔に、人格というか、意思のようなものは見当たらない。
ただそのどれもが、口を半開いて、虚ろな表情をして、Garmの腹に張った薄い黄色の膜の内に取り込まれていたのだ。
「……。」
沼地に毛皮を沈め、ごろりと寝そべりたい。
俺は、自分はどうなのだと、ちらと考えた。
自分の腹に重たく垂れ下がっているこいつらの存在に、気が付いていないだけなのではないだろうか。
そんな恐ろしい疑念に、目を眩まされたのだ。
確かめられたい。
誰かに腹を、隅から隅まで撫でられたいなどという、甘ったれた欲求が襲う。
俺は、怪物でないことの証明を容易くやってのけるSkaたちのことを心から羨ましく思った。
逆に言えば、俺は、己の正体がばれるのが怖くて、そうしなかっただけなのかも知れない。
腹の柔らかな毛を、何かが撫でるような感覚が襲う。
…きっと、きっと気のせいだ。
跳ねた沼の水が、毛先を伝って、落ちただけ。
堪らずぶるぶると身体の毛皮を揺すって、自分を惑わせようとする水気と血糊を弾き飛ばす。
「……。」
Garmはアウ、アウと呻き声を上げるだけで、動こうとしない。
四肢の痙攣から見るに、激痛の余り、失神してしまったようだ。
そのせいで、俺はこの異常な光景を、好きなだけ眼中に収めることを許されたのだ。
なんとなくではあったが、寓話の末路を彷彿とさせた。
猟師に鉄鋏で腹を切り裂かれ、未消化の犠牲者が顔を覗かせている場面だ。
どれも、生きているようには思えない。
なるほど、描写も細かであれば良いという訳では、無いのだな。
あの絵本の衝撃など、実物に比べれば、甘くまろやかであったのだ。
或いは、性を越えて孕んだ、胎児である。
何を血迷ったことを言っているのだろうと、自分でも困惑する。
しかし、そう口にしてしまうと、Garmの腹は確かに、そいつらで満たされ、膨らんでいるようにも見えた。
彼らは次の瞬間、身を包む薄膜を喰い破り、蜘蛛の仔を散らすようにして駆け出しても、おかしくはないのかも知れない。
「……。」
はじめてのことだったのだ。
しかし、わかっている。どちらも、正しくはないのだろう。
薄々は感じ取っていた、大狼の正体。
それが、こんな悍ましい形で、決定的となった。
この大狼は、多くの狼の毛皮を、彼らの身体ごと、魂ごと継いで、接いで、一匹となっている。
「……どう、して……。」
あり得ない。
何故、こんな完成が、存在する?
一体、どんな神様なら。
そんなことをしても許されると言うのだ?
何故、Garmは……。
産まれて来た?
「Garm……。」
鼻を啜り、何の感情も込めずに、彼の名前を呟く。
何故だろう。これだけ心を搔き乱されておきながら、不思議と歪な造形に嫌悪感は湧いてこない。
寧ろ、じっくりと眺めていたくなる。魔力を秘めた絵画のようだったのだ。
観察する時間は、どうしてか勝者に与えられている。
狼の冬毛は長く、外見からは全くその存在に気が付かなかった。
しかし、こう考えれば、これらの乳房の集合は、自然であるようにも思えてくる。
これは、‘皺寄せ’ であると。
彼一匹を有らしめるために、多くの狼たちが、その礎となった。
けれど、その全員が、一匹の主人である必要はない。
顔は……’そのうちの一匹’ で良い。
残りは、そうだ。見えないところへ、押しやってしまおう。
そんな体裁を気にしたい子供っぽさが、その乳房には見て取れた。
ああ。Garmとは、たった一匹、彼女に愛されていたのだ。
「……?」
そのうちの一匹に、目が釘付けになる。
顔に、見覚えはない。あってたまるか。
しかし、白濁したその瞳に。
いや、鼻面の丸みから、目を逸らすことが出来なかった。
「……。」
何と言うことだろう。
母の乳を咥えたことの無かった俺は、その形状に強烈な誘惑を蒔かれていたのだ。
な、んだ……?
どうしてこんな欲求が、今になって、強烈に浮かんで目の前で燃える?
息が、詰まってしまった。
あの神様がよく怖がっていたように、俺は溺れてしまったのだと思った。
もう、あの乳の形をした突起が、魅力的に思えて仕方がなくなった。
……。
‘あれ’ にしゃぶりつけば。
酸素を吸わせてくれるのではないか…?
接吻とまでは、言わないのだ。
しかし、その先端を……。
舐めたい。
訳が分からなかった。
錯乱したまま、俺は自らの意志に従おうとする。
…違う。
俺が牙を近づけるべきは、Garmの首筋の毛皮なのに。
もう戦いとか、縄張りとか、Teusとか。
それすらもどうでも良いような気にさせられていたのだ。
首根っこを押さえつけ、彼が本当に諦めてくれて。
動きをピタリと止めてくれたなら。
それが俺の望んだ服従の姿勢そのものだ。
…しかし、もう彼は既に全身から、力を抜き切ってしまっているように見える。
前脚は力なく曲がって、胸元に添えられ。
後ろ脚は、柔らかな関節に支えられて、宙にだらしなく浮いている。
それは正に、腹をさすってくれと、されるがままを望む愛おしい伴侶の姿そのものだったのだ。
そうか。
それならば……。
俺は、こいつを満足させてやっても、良いのではないだろうか。
「……。」
俺は、遂に誘惑に屈する。
今にも動き出しそうな艶を湛えたその突起に舌を伸ばし、
恐る恐る鼻先を近づけたのだ。