112. 折れた牙刃 2
112. The Broken Fangblade 2
“ウアァ…アァ…ウゥ…”
そう。まだ、終わっていないのだ。
自分と同じように、誰かの幸せの為に生きてみたいなどと。
死の淵で暴れまわる怪物がもう一匹。
“イダイッ…イダイヨォ……ウァァ……”
Garmは泣きながら四肢を伸ばし、立ち上がらんと自らの額を大剣の刀身へと深く押し込む。
“マッテロ…”
“イ…マ…行クカ…ラ……!!”
そして彼は大粒の涙を腐った眼球から流しながら、目の前の大狼よりも早く立ち直ろうと、あり得ない行動に出る。
“ウア゛ア゛ア゛ア゛ッ…!!ギャアアアアアアッッ…!!”
「……っ!?」
耳をもぎ取るような悲鳴が、世界を揺るがす。
Teusは眼を覆い、片や俺は見開く。
そんなことまで、してしまえるのか。
Garmは傷口を広げるようにして顔をぐいとねじると、刀身に無理な角度で噛みついたのだ。
“グルルルルゥゥゥゥッ……!!”
ガンッ…ガンッ…ガリッ…バキィ…
「う、ああ……。」
あまりにも酷い。
狼の牙が、刃に敗れて折れたのだ。
罠に嵌められた獲物が足掻くようだ。
どうせ惨たらしく殺されるのなら、最後の抵抗は、致命傷すら厭うまい。
ベキッ…バキッ…ガキンッ…!
“アンギャアアアアアアアアアーーーーーーーッッ…!!!!!”
バリィィン……。
「う、嘘だ…ろ…」
「ルーン綴りの刃が…折れ…た?」
弾け飛んだ剣の柄が、沼の上を滑って転がる。
そして切っ先は、Garmの顎の下をずるりと音を立てて抜け落ちた。
“ア゛ァッ…ハァッ…ハァ……。”
“アァ…ウゥ…”
「……。」
眼をひん剥いて、立っているのがやっと。そう顔に書いてある。
悲しいぐらい、可哀そうなぐらい、明らかな衰弱が見て取れた。
お相子だと言えば、それまでかも知れない。
しかし俺は、先までのいがみ合いを忘れてしまうほど、彼の怒りを伴わない、生きたい衝動だけから来る必死の形相に心を奪われていたのだ。
Garmの額にぽっかりと空いた穴を、百足たちが総出で埋め尽くしていく。
眼を、背けられない。
“オ嬢……?”
“オ嬢…ハ…!大丈夫……カ…?”
恐怖に耳がぴんと立ち、全身の毛皮が逆立つ。
満身創痍の身さえも一瞬で忘れ、彼は番狼の役目を失ったのではないかと血相を変えた。
が、それから何かを感じ取ったのか、ほっと顔を綻ばせる。
“良カッタァ……。”
“心配シタゾ…イツモ、何処カヘ一人デ行ッテシマウカラ…”
“スグニ、迎エニ行ク…”
“絶対ニ、一人ニナンテサセナイ…カラ…”
“コイツラヲッ…ハァ…ハァ…片付ケ…テ…!
“マタ……一緒ニ…遊、ボ…ウ……”
“…オ…嬢…。”
「……。」
たかが、大狼同士の矜持のぶつかり合い。
Teusに吐き捨てるようにして告げなければ、とっくの昔に心が折れてしまっていただろう。
お前の言う通りだ。
俺には、倒せそうにない。どうしても。
どうして、立ち上がらなくてはならない?
俺も、お前も。
これから始まる、後半戦を誰かが割って入って止めてくれるような。
そんな展開は、用意されていないのか?
「……下がっていろ。」
もうあいつは、お前のことが怖くて手出しはしてこないだろう。
俺もあいつの愛しのオ嬢様を傷つけるつもりは毛頭ない。
つまり、これで真に対等になったと言えよう。
「お前は、せいぜい祈っていくれ。」
皮肉を込めたつもりはないし、助太刀は無用と見栄を張ることの出来る余裕もない。
けれど、俺は、お前のあの面を、できれば二度と見ずに済みたいのだ。
「Teus。」
「為すべきことを、お前は為すのだな。」
神という存在を、今だけは心底恨んでいるぞ。
「…耐久戦と、行こうでは無いか。」
一応、呼びかけてみた。
相手も ’差し’ のつもりでいるのか、と。
答えは無かった。
けれど、Garmが同じことを考えていることだけは分かった。
互いがよろよろと四肢を突っ張り、構え終わるのを待つ。
「……!!」
“……!!”
しかしそれも、二匹が間合いに入るまでの静寂に過ぎない。
ドズンッ…
気を失いそうになるほどの瞬歩で距離が詰まり、鈍い衝撃音が響き渡った。
狼の額同士がぶつかり合い、全身へ激痛が走る。
互いに口を開き、牙を剥く余力も残っていなかった。
肉と肉とのぶつかり合いでは、体格以外で差もつかない。
一発で仕留めたいという切羽詰まった本心が、かえって戦いを長引かせる。
2匹は組み合ったまま、完全に静止してしまった。
鍔迫り合いの如く首をぷるぷると震わせ、一歩も引くまいと沼の中へと爪を喰い込ませる。
なんてことだ。
運を味方につけて、拮抗しているだなんて。
気力だけで立っているはずなのに、Garmは一歩も譲ろうとしない。
“グゥゥゥ……!”
「……?」
…いや、額を強く打ち付けられ、自覚なく怯んでいる。
“ヴゥ…ウ、ヴゥゥゥゥッ……!”
僅かだが、優勢だったのだ。
俺たち武器とは、結局のところ牙だ。
そいつを振り翳したいのに、Teusが振り下ろした宝剣によって晒された弱点は、彼に攻防の一体を強いていたのだ。
戦闘の渦中にいながら、俺は神の視点からそれを冷静に悟る。
Garmの傷口から溢れ出る血の量が尋常ではない。
それは俺の鼻先にまで垂れて、凄まじい臭いを放っていた。
腐った肉塊など、比にならない。
あの赤い腐敗を溜め込んだ子嚢を鼻の穴に隙間なく詰め込まれたようだ。
だが、そう揶揄するのは失礼にあたるのかも、とも思った。
お前にとっても、俺のそれは、こんな風な臭いであるのだろう。
何だが不思議な気分だ。
互いの身体の匂いを嗅がせ合うような自己紹介、今までやったことが無かったものだから。
「許せっ……Garmっ!!」
“……ッ!?”
俺は渾身の力を込め、初めて反撃として正々堂々と一歩踏み込む。
初めまして、そんな気がしないな。
お前も、そう思わないか…?
遂に、均衡は破れる。
“ヴゥッ…グ…ヌ…ヌゥ…!!”
Garmは悔しそうに唸り声を漏らし、一歩後ろ脚を滑らせ退いた。
「う゛…あ゛…あ゛ぁ……!!」
もう、押すしかない。こいつは耐えかねて、俺から額を離そうとするだろう。
その隙に、今度こそ迷いなく…仕留める。
“クゥゥッ…ウ、ウゥ…”
彼は甲高く、呻き声を上げる。
“……。”
そして、ニヤリと笑ったのだ。