111. 幸運 3
111. Hard Luck 3
やむを得なかったとはいえ、心底後悔している。
咄嗟の勇気を出して、お前を口の中に咥えて仔狼のように運んだせいだ。
そのせいで、お前は余計な一歩を踏み出した。
「君がこれを嫌がっているのは…分かっているつもりなんだ。」
どれだけ人間の世界の扉を開いて見せても、君の決心は固かった。
沢山の美味しい食べ物も、常設の図書館も、四つ足の友達と、小さなお家だってあるのに。
君は結局ヴァン川の向こうで一緒に暮らすことを選んではくれなかったね。
それが残念だとは、思わない。
何を、何処まで、受け入れるか。それは君が狼として、自由に選ぶべきことだから。
「思い返すとこれが…始まりだったように思っている。」
何ていうか…
君を救って見せる。俺のそんな決心を、形にできた瞬間だったんだ。
忘れないよ。
Fenrirが洞穴の前で、俺に言ってくれたこと。
“俺は…狼としてお前等人間に救われることが…どうしても受け入れられない。
だからお前がやったことは……正しいとは思わない。
だが…それならば、俺に出来るのならば…
せめて人として、
お前が俺なんかのためにしてくれたことを
ありがとうと言って受け入れたいのだ。
俺に、できるのなら…。“
「変わらない。変わらないよ、俺は…。」
拳を震わせ、ふっと力を抜く。
「…何も、変わらなかった。」
君の考える、在りたい姿を応援したい。
たとえ…袂を分かつようなことになっても。
「こんな風だからね。嫌われるのは、慣れているんだよ。」
肩を竦め、先までの威厳に満ちた神の御姿を茶化して笑う。
「Fenrirはどうか、そのままでいて。」
Teusは躊躇いなく半開きの口の中へと頭を突っ込み、狼の洞穴の様子を窺う。
「……。」
何もかもが、許せなかった。
彼の身勝手な距離感を、前ほどの露骨に嫌えなくなっていることも。
死に至ることが怖いとか、そういった感情と向き合うことを忘れつつあったことも。
それ以前に、やっぱり俺は、こいつと仲良くなり過ぎてしまったことも。
気に喰わなかった。
俺だけが、変わってしまったと言っているように取れたから。
この怪物は、何も変わってなどいない。
お前への羨望も、貴方への渇望も、強く抱いたまま。
人間にも、狼にも。
何者にもなり切れず。
こうしてただ、横たわっているだけ。
そう、俺はTeusの言葉を否定せずにはいられなかった。
彼は、俺の歩む姿を心の底から喜んでくれている。
疑いようも無く。
だけど、やっぱりこいつは、寂しいのだ。
…人間として、か。
そうか。そんな決意も、薄れかけていた。
だって、俺は狼になるしか、無かったから。
もし、俺は変わってしまったとお前が言うのなら。
…そうだな。
俺は……。
もう、人間となれないのかも知れない。
「Fenrir…?」
「大丈夫…Fenrir?おえぇって、しない?」
喉の奥で動かれると、気持ち悪いよね。
その時は、出て来るから言って。
「……。」
自分の口の中で蠢くやつが、何か喋っているのが聞こえる。
直接心の内に語り掛けているようで、新鮮な響きが骨の髄にあった。
もし獲物を生きたまま飲み込むような素行が俺にあったなら、最期の命乞いを喉越しに味わっていたのだろうか。
せめて、違和感でこいつのことをうっかり呑み込まないようにしなくては。
というか、限界を感じた所で、こいつに警告を発してやれる筈がないだろう。
俺が出ていけと怒鳴れば、舌の奥でこいつが跳ねて、それこそ変な嘔吐反射をしかねない。
刺激されないよう願って、我慢するしかなかったのだ。
「……。」
無数の引っ掻き傷をつけられた粘膜の上を味のしない喰い物が奥へと張っていく。
ああ。歯磨きを強いられるSkaの気分は、このようなものだったのだろうなあ。
耐え難いが故に、じっと身を任せる他無い。
することがなくて、恨めし気に眼球だけが動いて白目を見せるのだ。
おい。まだか、Teus。
自分の体内に彼がいるのだから、俺の意志がこいつに伝わることがあっても良いだろうと、言葉を浮かべて届けと強く念じてみる。
早くしないと、まずいのだぞ…。
すると、果たして反応があった。
彼は何かを暗がりに、お目当ての何かを見出したらしい。
「あった……!」
…待て、その声が響いた場所。
けっこう奥まで、入り込んではいないか?
割と本気で、嚥下したらまずい。
そう意識した途端に、俺は自分で意図せずに、変なことをしでかしてしまう気がした。
そんな衝動に、駆られたのだ。
だ、駄目だ…Teusっ…!!
彼が胃の中へと吸い込まれていく瞬間を想像して、肝がすっと冷える。
“グルルゥゥ……!”
喉の奥深くで、確かな蟠りを感じた。
反射的に唸り声を漏らし、頭を擡げる。
最悪だ…!
吐き出さなくては、Teus諸とも。
胃袋の中身も、全部ぶちまけるんだ。
しかし、やろうと思って吐けるのなら苦労は無いのだ。
こうなったら、赤頭巾のように、自分の腹を掻っ捌いてでも…!!
“……っ?”
焦燥と疲弊で混乱していると、突如として、喉元がかっと熱くなるのを感じた。
な…なん、だ…?
首元の毛皮に張り付いていた百足たちが、一斉に暴れている。
“むっ……ぐぅっ…んんっ…!?”
…そうか。劇薬が、効いているのか。
あいつ、百足の巣穴に薬を垂らしたのだな。
馬鹿な奴だ。
その為に、態々俺の中に入ってきたと言うのか。
“…がはっ…!!げへぇっ!!げほっ…げほっ…ごぼっ……。”
「うわぁっ!?」
べちょ、べしゃという汚らしい吐瀉物の音ともに、未消化の獲物が口から零れ出る。
ひとつは、縫い合わせる境界を失った、寄生体の群れ。
なるほどな。内壁に住みつかれては、道理で呼吸も儘ならない。
そしてもう一つは、先ほど俺が平らげたばかりの、予期せぬご馳走だった。
ああ、良かった。お前を消化するなど、死んでもごめんだぞ。
「ず……ずまな……。ぐへぇっ……!!」
「ぶはぁっ……!!」
「ぬわぁぁーっ…!?」
最後の最後に、Teusに向かって胃の中身をぶちまけ、顔面が分からなくなるほどに血反吐で汚す。
「う……あ……。」
「……。」
ぽた……ぽた……。
「わ、るい……。」
「た、すかっ……た…。」
汚いよな…。
悪い菌にでも感染しなければ良いのだが。
まあ、もうお互いに流れている血は感染済みのようだ。
お前が俺の失態のせいで体調を崩すことは無いと、信じよう。