111. 幸運 2
111. Hard Luck 2
この目にまざまざと、見せつけられた。
戦況は、彼の一存によって如何様にも逆転する。
形容しがたい、大局のうねり。
これを、運と呼ぶ他あるまい。
己の運だけに頼って、この神は趨勢を支配していたのだ。
殆ど終戦に至ったと言って良かった。
「……。」
彼は憂鬱そうに周囲の戦禍を見渡すと、最後に拳銃を宙に向けて放つ。
バァァァーーン……。
空へ吸い込まれる発砲音。
何のために、そう思案する間もない。
直後に天候が変わり、小雨だった雨足が強くなった。
ズドオォォォーーー!!
バッシャァァーーン……。
…そうか、子嚢を、打ち抜いたのか。
この世界を照らす禍々しい太陽に、亀裂を入れたのだ。
視界の遥か遠くで、大剣に串刺しにされた赤い球体が落下していくのが見える。
それは着弾時に僅かながら弾力を持って皮を揺らしたが、すぐさまプチンと弾け、未熟な種子をぶちまけて潰れた。
段々と、空が色味を失っていく。
曇天から漏れる幾筋かの光は、今度こそ天空の神が齎した、希望の光だったのだ。
…地獄が、綻び始めた。
神様はその奇跡を、いとも簡単に起こしてしまえたのだ。
…たった、一人で。
軍神、テュール。
俺はそいつに…初めて、お目にかかる。
そんな気がした。
偉大なるその行いを、少しも神々しく見せようとしなかったのは。
彼がそれを、見ないでくれとせがんでいるからのように思えてならない。
バシャーン…ザパァ……。
次々と着弾する子嚢の粒で、沼が波打つ。
頭を擡げることさえ出来ない俺の視界は、忽ち赤く埋め尽くされ。
不意に俺は、その神様の姿を見失った。
――――――――――――――――――――――
「フェンリルっ…フェンリルっ…目を醒ましてくれっ!」
……?
ああ、目を瞑っていたせいか。
一瞬、意識が飛びかけてしまった。
大丈夫だ。此処にいるぞ。
寝転んでいた世界とは、地獄と神界の狭間で、代わりないのだな。
そしてその声には、聞き覚えがある。
「お願いだよ、Fenrirっ。君の力が、必要なんだ。」
…そうか?
今の光景を目の当たりにして、俺はお前ひとりで十分だと確信したのだが。
けれど、その声と口調はもう、今まで通り。
俺の知っているTeusで、間違いないようだ。
「Fenrirは、こんな所で死んじゃいけないんだ。絶対、俺と一緒に帰ろうって、約束しただろ?」
「待ってろ…今、助けるから……。」
近寄った彼の表情にピントが合わず、俺は漫然とぼけた景色に目を凝らす。
見れば彼は、俺の喉から胴へと刺さった結晶槍を抜き取ろうと躍起になっているらしかった。
それは俺をヨタンの一族に染め上げようとした、あの霜の槍ではない。
生きたように、脈打つ鉄塊だったのだ。
返しが刀身に刻み込まれていて、巨大な人間が獣を狩ろうと拵えたなら、確かにこのようなつくりになるだろう。
本来なら、それで狼を貫けるとは思えないが。
俺はこんなものに狩られるほど、弱っていたのだ。
正しく、狩猟とはそうあるべきだ。元気いっぱいな標的など、定めるべきではない。
こうして冷静さを失った弱者に狙いを済ませ、こんなものにやられて屈辱的だと思わせたならば。
ああ、お前達の勝ちだ。
実際そいつは、巨人が鉄くずから削ったのかと思えるほどに重たい。
木の幹ほどあるそれを抱え、彼が全体重をかけて引っ張ったとしても、びくともしないだろう。
「熱っ…くそっ……!全然触れない……!!」
そしてその一言で、口先からはみ出た鉄の針が赤みを帯びているのは、焼け付くほど赤熱していたからだと分かった。
そうか。俺はこいつに喉を焼かれて塞がれたまま、こうして寝ころんでいたのか。
道理で、背筋がまっすぐに強制されているような感じがする訳だ。
そして、死にかけているのに、身体の芯から、暖かい。
まともに息が吸えずとも、何とか意識があるのは、不幸中の幸いと言って良いだろう。
ぐっちゅ…ぐちちっ…くちゃくちゃ……。
益虫とも限らん、か。
首元で好き勝手に這い廻る百足どもが古傷諸とも、気道を開きっぱなしにしてくれているのだ。
皮肉にも、こいつらに助けられたのだな。
ありがとうよ。Garm。
「う…うぅ…。」
しかし、身体に全く力を込めることが叶わず、Teusの為には何一つしてやれない。
そこら中から、血を流し過ぎた。
霜の輸血とやらも、一命を取り留める量で限界のようだな。
「う゛っ……こ、れくっ…らいぃ…!!」
ジュッ……。
「っ……!!!」
お、おい……何してる、やめろ…!
両手が焼け爛れるのも構わず、彼は赤鉄を強引に掴んで引っ張ろうとする。
肉が焼ける臭いがして、表情が苦痛に歪んだ。
「こんな、の……Fenrirに…くら、べればぁっ…!!」
……。
やめろ、見ていられない…。
「ぬっ、けて…くれぇっ!!……うわっ…?」
バシャ……。
言わんこっちゃない。手の皮膚が剥けてしまったのだ。
そのままずるりと滑って、無様に沼へ尻餅をつく。
「う……うぅ…?」
しかし、それが引き金となってくれた。
生理現象のように、同時に俺の体内で何かが滑って動き出したのが分かった。
返しの刃が、内壁を好き放題に引っ掻いて走る。
「……!?」
「ぐっ……ぶほっ!?…ぶぶっ……。」
ようやく身体が嘔吐反射を思い出したらしい。
背中が曲がって腹を波打たせ、弱弱しい咳と共に吐き出そうとする。
「……。」
が、体力の限界か、途中でその発作が収まってしまった。
棘は身体の中途半端なところで止まってしまう。
「う…わ……大丈夫!?Fenrirっ!!」
Teusは慌てて起き上がると、それを最後まで引っ張り出そうと手伝った。
「う゛ぅ……ヴゥゥゥゥ…げぇぇ……。」
力なく嗚咽を漏らすだけで、俺は苦痛に表情も変えられない。
「だっ…はぁぁっ…あ、あ…。」
口から尻の穴まで貫いていたのではと思うほど、長い長い槍だったが。
Teusが胴着を焦がしながら手伝ってくれたお陰で、何とか尻尾を拝むことができた。
「ぐ……う……。。」
「あ゛ぁっ………。」
もう肺を膨らませるのも、容易では無い。
身体の中は、ぐちゃぐちゃだったのだ。
「あぁ……。」
舌の上を、血の味が滑って消える。
ポチャ……ピチャ…。
「……。」
終わったのだ。
立ち上がれない。
もう、一切の気力がない。
力が、尽きた。
「Fenrir……。」
彼は呆然と醜態を眺めていたが、続く言葉を呑み込むと、口をきつく結んで外套の裏へと手をのばす。
「……。」
たっぷりと血を吸ったマントは、栄える藍色を失い、彼を相応しくないほどにみすぼらしく見せていた。
その様子はまるで、嵐の夜を越えて、会いに来たかのよう。
そいつがやろうとしていることは、分かり切っていた。
手の平に握りしめて、分厚い布の裏に隠しているつもりなのだろうけれど。
「こ、これ……。」
「……。」
一体、何度彼女を泣かせれば、気が済むんだ。
声を出せぬ代わりに、俺は憎しみを込めて睨みつけた。
例外なく、万物を癒す。愛の女神の涙を込めた、霊気の薬瓶。
最悪だ。それをまた、与えられようと言うのか。
もっと、それを必要としていた狼が、すぐ傍にいたはずなのに。
それを手にして良い資格が、お前の何処に、残っていると言うのか。
そう悔やんでいたのは、自分自身では無かったのか。
どんな酷いことを、彼女にした。
もしや、既に話し合った後だと言うのか。
「……。」
Teusはたじろいで目を背ける。
罪悪感はあるとだけ、言い訳しているつもりか。
それが気に喰わなかった。
「口の中……潜るから。ちょっと、我慢していて。」
「……。」
無抵抗であるのを良いことに、大胆な行動に出るお前の気概も、気に喰わない。