109. 盲従 2
109. Blind Obedience 2
Garmによる浸食を、この身体も一応は儀礼的に拒絶してくれたのだ。
誰かが、護ってくれたのだ。
そう思うと、堪らなく嬉しくて、眼の端が潤む。
その加護でさえ耐え切れなかったのは、俺が非力な怪物だったからに過ぎない。
しかし、雪解けのように冷たい血を浴びるように飲まされたとて、俺に欠色が起こることは無かった。
神の血ではないのだから、それは元より汚れていると言って良いのだろう。
そのお陰で、俺は何かになり損ねた。
不安が胸中で渦巻き、
俺に新たな存在を示唆しようとしている。
自分自身でさえ知覚し得ない血族を。
アース神族では無く、霜の一族に好まれながら、それからはぐれた獣の血。
「俺、は……?」
そして、あの少女が振り撒く、懐かしい二人の香り。
どうして彼女から、今になって。
「彼女…は…?」
Fenrirは、恐ろしい結論を口に出来ず舌をしまう。
類まれに聡明で、物語の次なる展開を悉く言い当ててきた彼にとって、
それを導き出すことは、決して難しいことでは無かった。
ただ、認めたくなかったのだ。
彼が尻尾を振ってお座りをして、嬉しそうに両親のことを見上げる姿が、脳裏で鮮明に描かれてしまう。
俺は、言わなくちゃならない。
この大狼は、間違いなく、LokiとAngrbodaの子供だと。
それは、客観的事実ではない。血筋とか、そういうものは関係ない。
彼自身の為の事実だ。
でも、彼女が放つ ’臭い’ について。
それがFenrirの臭いと違うはずが無い。
俺は本当に何も分からなかった。
狼の有する人間を超越した嗅覚がどうしてそう伝えてくるのか。
彼のJotunへの異様な抵抗は、Garm自身も首を捻っていたような不可解さを俺たちに残している。
「……。」
沈黙するしか、無かった。
世界の限界を超えていて、語りえない領域に達していたのだ。
唯一とは言わない。けど無二の友人として。
彼の存在が言い当てられない。
まるで、狼の中に生き続ける影を。
得体が知れず恐れているように。
「もしかして……。彼女も、俺みたいに、嫌われて…?」
「……?」
しかし、彼の心に巣食った仔狼がそれを妨げる。
最も核心に迫ろうというところで、Fenrirは無意識に耐え切れず、幼稚に退行してしまっていたのだ。
がくりと前足を沼の中に折ると、そのまま身を伏せ、鼻面を肉球で覆い呻く。
まるで、人間がしまったという表情を両手で隠す様に。
「そうか…やっぱり…そうなんだ。」
「父さんと母さんに、捨てられてしまうような、悪い子だったんだな…。」
「……ごめん、なさい。」
彼は何者かも分からぬ誰かに代わって、そう懺悔する。
そうだと、気付かなかったからなのか。
或いは、それすらも自分のせいだと思い詰めてしまっているのか。
いずれにしろ。
Fenrirは優しすぎた。
彼は盲目的になるほど、悲しみに暮れ。
思惑通りに、戦意を奪い尽くされていた。
その意味で、彼は望み通りに血に毒されていたのだ。
“ソコマデ…ダ……!”
対照的に、苦しそうな怒号を放ってGarmは立ち上がる。
“ソレ以上…彼女ヲ侮辱シ、傷口ヲ抉ルヨウナ戯言ハ許サン!”
彼は歯を食い縛り、喉の隙間から血を漏らしながら続ける。
どうにかして、致命傷を免れる程度に縫合が済んだようだ。
全身を這い廻っていた百足たちが駆り出されたようだ。代わりに継ぎ目を失った毛皮のあちこちはひび割れ、血が滲んでいる。
彼は飽くまでも、少女の為に立ち塞がり続けるつもりなのだ。
「違う…俺はただ、お前とその少女のことが、可哀そうだと…」
“貴様ニ何ガ分カルッ!!”
Garmは噛みつくように言葉を遮る。
いや、牙を剥いていて、比喩ではない。
これからもう一度牙を突き立ててやるつもりでいるのだ。
“ソンナニモ…彼女ヲ自分ト重ネ合ワセタイカァァァァッ…!”
「……。」
どれだけ、彼女が辛い目に遭い。
そしてそれを苦しいと捉えられていないか。
お前に分かるか?
悲劇の主人公を気取るのは結構だ。だがそうやって不運だなどと毒を吐き、
他人を言い知れぬ不安に引き込み陥れるのは、我慢ならん。
見ていて、心底寒気がするのだ。
一匹で悟っていろ。
自分だけが、そうして狼として生まれたのだと言うことを。
“…オ嬢ハ、オ前ノヨウニ救ワレヌ存在ナドデハ、断ジテナイ!”
“オ嬢ハ…オ嬢ハアァァッ…!!”
皺の寄せられた眉間に、初めて恐怖が混ざる。
今まで優位を保つことを片時も忘れずにいた大狼は、頭をこれまでにないほど低く下げ、威嚇の姿勢をとったのだ。
“ワガ命ガ何度滅ビヨウト、必ズ俺ガ幸セニシテ見セル!”
“皆ヲ屈服サセテデモ、彼女ハ幸セナ人ダト、口々ニ言ワセテヤルンダッ!!!”
「……。」
“フッフッフッ…ゲヘェッ…ゴボッ…グッ、ウゥ…ハァッ…ア、アァ…!!”
口の端を歪めて嗤うと、縫い終えた毛皮の端から、膿のように粘った血が噴き出る。
彼はFenrirと同じぐらい、死の淵を転げまわっていた。
そう。まだ戦いは、前哨戦を終えたばかり。
死なせて貰える訳が無かった。
“アア…、ソウダトモ。”
“オ前タチハソレヲ受ケ入レタ。”
“オ嬢ノ眷属トナッタノダ。”
“戦ウ理由ヲ、失ッタ。”
それでもまだ、転がり、腹を見せることをしないと言うのなら。
“寛大ニモ、望ミ通リニシテヤルゾ。”
この血を吐き出す為には。
もうその命ごと、沼の中に流し切ってしまうしか無いのだからな。