18.禁書目録 1
18. Index
その緊張感は、初めてこの森に足を踏み入れたときのそれと似ていた。
あちらが一切感情を表に出そうとしないのは、こちらから働きかけるのを待っているからだった。
ちょうどこの森と、その中で生かされるものとの関係に似ていると思った。
謙虚に観察することだ、そうすれば自然は何かを教えてくれる。
そう教わったから、きっと間違いではないだろう。
だから俺は、この森に訪れたばかりの時にそうしたように、はじめはその雰囲気を楽しみながらまずは一周、冒険のつもりで見て回ると、次は背表紙だけを一瞥して、直感に媚びてきたものを片っ端から引き抜いて行った。
「ふむ…。」
そんなにたくさん選んだつもりはないけれど、振り返って見れば優に三十数冊の書物を宙に従えているのだった。
借りられてよかった、こんなに一度には読めるはずがないものな。
お陰でゆったりとした気持ちで本を開くことが出来る。
入り口前の広場まで戻ると、Teusもカウンターで文庫本と思しきものを手にして座っていた。
彼も読書に時間を当てるようだ、と思いきやうつらうつらと頭を揺らしていて、ただの睡眠薬として導入していたに過ぎなかったとわかった。
それを見て、俺は彼への感謝の念に堪えないのだった。
この日のために彼は文字通り奔走した。俺の喜ぶ姿を思い浮かべなら、それだけのために必死で動物たちを集め、ケーキを作ってもらって、図書館を手配して、そして召喚で力を使い果たしたのだ。
彼が大喜びで俺を祝ってくれた姿を思うと、胸が締め付けられた。
疲れ果ててぐっすり眠る前に俺は、何も感謝の気持ちを伝えられなかった気がしたのだ。
せめて彼に、もっと無邪気に、嬉しそうにしている姿を見せればよかった。
あんまりにもたらふく喰い過ぎて、まん丸に太った身体をごろんと転がして腹を見せ、うーん、もう喰えないやと尻尾を振って見せればよかった。
後悔の念ばかりが募る。が、今はTeusをそっと寝かせておこうと思った。
きっとかなりの血を失っただろう、しばらく起きそうにない。
でも今度はTeusに何かしてやろうと固く誓ったのだった。
「ありがとうよ…。」
それでも起こさないようにと小さな声で呟き、俺もその傍らに腹這いになって座り込んだ。
「これだな…。」
一番初めに読むことにしたのは、ペローの赤頭巾だ。
前にTeusが話していて、気になっていた。
始めに読んだのがグリム童話の赤頭巾だったせいか、読後感は何か物足りないというか、中途半端な印象を受けてしまった。
なるほど確かに狼はおばあちゃんと赤頭巾を喰い殺したところで話は終わる。
すっきりとしない物語の結びに、女性は優しい狼のような男に最も注意せねばならない、という教訓めいた言葉が綴られている。
Teusはこの物語をあまり深く読んでいないような気がしたが、この結末が俺にとって何を意味するのかを考えた。
こんなにすっきりとしない話になるくらいなら、狼の犠牲も時には必要なのかもしれない、というのがこんな狼の素直な感想であるのだが、今はそれは良い。
狼が粛清されることは無かったという点が、狼が悪ではなかったということを意味しない代わりに、誰もその悪から救ってくれる者はいない、という教訓を導き出すのは容易だったし、だから尚更、気を付けろと言うことなのだろう。
だがTeusは別の考え方をしたかもしれない、とも思った。
なるほどこの寓話の語り手はある程度狼のことを正しく知っている。
もし俺に、この面倒な、人間への異常な執着心がなくとも、俺は人間を喰い殺して回ることを喜ぶような狼ではなかっただろう。むしろ、逃げだすに違いない。
しかしながら、もし森で出会ったのがこの赤頭巾とばあさんだったなら、俺はこの二人を食べていたかもしれない。
一目見て、この二人が普通ではないことを察知するだろう。
いかにも健康そうなTeusや猟師と違って、抵抗力のなさそうな、狩るのが楽そうな幼老体だ。
極限まで飢えた俺は、そんな二人の甘い匂いの誘惑に耐え切れただろうか。
ちょっとしたことが原因で、本能が目覚め、人肉に手を付けてしまうだろう。他の動物と、何も変わらずに。
この狼が、そうであったなら…。
そうであったなら、それは肯定されるべきだったと、彼は言いたいのかもしれない。
生きるための本能に従ってやったことのはずだと。
間違いなく、後に糾弾され、処刑されるような行為だと俺は思うが、そうかなと疑問を投げかけていたのだったか。
“何がごめんだっ!…殺せば良かっただろうが!!”
「…。」
Teusの台詞が頭の中で響く。
思わずページから目を離し、隣で眠る彼を見た。
血を流して倒れる獲物を食べない狼がいるだろうか。
彼は俺が狼として生きることを心から応援してくれていたのだった。実際、こうしてできることはすべてやってくれている。
もっと俺は、狼らしく生きても良いかもしれない。
でも俺は決して、凶暴な人喰い狼にはならないよ。
「食べる訳ないだろう…。」
そう呟くと、Teusは頭をがくんと前に振ったのだった。
それからは、随分と穏やかではない読書が続いた。
特にそうしたつもりは無いのだが、それらに共感を求めたのだろう。選んだ本はどれも狼か、或いは人狼か、似たような怪物が苦しんでいるような話だった。
それが俺のような悪役として、まるで当然の報いとして殺されるのは寧ろ気分が良かった。
それが主人公として、叶わぬ願いのために奔走するものもあって、それもまあ良かろうと構えられた。
夢、というのは鼻で笑ってしまうようなことだった。
人間と、仲良くなりたいという夢だ。
その夢も半ばで潰えてしまうような結末には納得できた。
まあ、そうなるだろうな。悪くない夢だが、と満足できた。
そう言った話は、ただ楽しんで読むことが出来たのだ。
だけれども、その主人公が努力の末にその夢を叶えるハッピーエンドを、俺は酷く拒絶した。
その化け物は、かけがえのない友情と愛情を人間と確かめ合い、幸せに暮らしたのだった。
物語が収束するにつれて雲行きは怪しくなり、読み終えたときにはあまりにも憤慨して、暫くそのまま最後のページを開いたままだった。
血が上った頭で必死に反論の筋道を考えていたのだ。
言うまでもなく、己と重ね合わせ、悶絶していた。
俺は、これらの物語に出てくるような、人間のような生き方に憧れる動物や化け物とは違う。彼らは何も知らない。わかってなどいない。
本を読み、学ぶことに憧れ、人間に成り済ます主人公を見て、俺はこれにも激しい嫌悪感を示した。
自分が今していることが、こいつと全く変わらないなどとは断じて認めたくなかったのだ。
昨晩まで自分が洞穴の中で、わくわくしながら彼に向けて読み聞かせをしていたことを、俺は顔を真っ赤にして恥じ入った。そんなことをすれば、彼に咎められるに違いないとわかっていたろう?
この狼とも俺は違う。何がどのように違うか、言ってやらなければ気が済まなかった。
こいつは知らぬのだ…人間として生きるのが、何を意味するのかを。
だが、俺は何を知っている?
そう尋ねられて、すぐに何も言えないことを俺は思い知らされた。
二人のもとにいたのは、思考も稚拙な、生まれたての短い時で、人と一緒にいたと表現できるかも怪しい日々しか送ってはいなかった。それでもやはり俺はこいつらとは違うのだと確信している。
俺は、あの時に人間から、何かを奪われたのだ。その絶望が分からぬのだ。
それは、一体なんだろうか。
自分の拠り所となるもの。愛情は、そんなものは始めから無かった。無かったけれど、俺がそう信じていたものが、一瞬にして崩れ去った。
俺はTeusに言ったように、人間を嫌いにならずにいたいし、自分で認めたように、二人がいくら憎くたって、許すつもりでいる。
Teusは優しい。ほかの人間だってそうだと思う。だが、彼がそう言ったようにその優しさが俺達にも向けられているなんてどうして思える?こいつは知らぬのだ、それがどれだけ苦しいか。
それでも自分がしていることをどう釈明すれば良いのか答え倦ねた。
先から要領を得ないことばかりを考えている。
過去の小さな幸せにしがみつく哀れな自分に反論の余地はなかった。
そもそも初めから無かったものを奪われたと嘆くことに、彼らを嘲る論拠などなかったのだ。
俺も結局、この名だたる怪物たちのうちの一匹に過ぎなかったと言うことか。
…それなのに、どうしてこんなにも、両者の結末は違う?
一方の主人公が、自分の望んだすべてのものを手に入れて幸せであるのに。
他方、惨めな狼は、自分が欲しかったものを全て諦めて笑っていた。
俺は項垂れた。その差はなんだろう?
こいつは凄いと思う。
読んでいて感動したし、本当にわくわくした。この主人公には知恵があり、勇気があり、そして誰よりも努力した。そのお陰で、彼を支えてくれる人々に、出会えたのだ。
俺は…俺は何もしてこなかった。
もう一度頑張ってみる勇気もなくて、二人は笑ってくれないと怖がって、努力しようとすらしなかった。その気力すら奪われたと抜かしていたのだ。
わかっている。羨ましかったのだ。そう呟き、心を落ち着ける。
そんな主人公たちのようになれなくて、悔しくて、妬んでいたに過ぎなかったのだ。
認めたくなんか、なかったけど。
あいつが来てくれていなかったら、どうなっていただろう?
沈みきった心に、後味の悪いバッドエンドは良く染み入った。
ただ安心して慰みものとして読んでいただけに過ぎなかったが、そうは言っても、もう良いやと諦めて読むのを止めることはしなかった。
次の本はどうだろう、開いた本はそのどちらでもなく、俺は捲るページの手を止める。
見慣れぬ文字で題されたその本の主人公は、俺によく似た、卑屈で、陰湿な性格の持ち主だった。
その男は、あるとき虎になったのだ。
偶然出会った彼の親友は、消えゆく彼の人間としての自我がする告白に耳を傾け、もう二度と会うことが無いように虎の姿を見せられ、そして去って行った。
それで、終わった。
俺は先とは違う感情のもとでとうとう酷く困惑した。
またそれが、自分にとって何を意味するかを考えた。
彼にいたく共感できるものがあったのだ。それは何だろう。
この化け物もまた、生まれてきたばっかりに人間と獣の間で苦しんできたのだ。
彼はきっと、人間であることを、ある時まで信じて疑わなかっただろう。
当然、身も心も人間だったのだから。
それが突如、恐るべき獣へ豹変したのだ。
己が揺らぐ不安感は痛いほど理解できた。
それで俺はふと気が付いた。俺は産まれたときからずっと外見では狼だったけれど、彼の供述にうんうんと頷けるのは、彼にある時、人間から虎へと変貌する瞬間があったように、俺の中でも、それは心に、あったからではないだろうか。
そうだ、俺は確かにあの時、人間ではなくなって、あの時、狼になったのだ。
そして、あのとき、怪物になったのだ。
Teusにもそう話したっけ。
だがそれでは一つ疑問が残った。
では、俺は人であったとき、狼になることを恐れたであろうか?
そして狼の時に、人であったことに疑問を持っただろうか。
一つ目の自問に、俺は首を振る。
もし俺が狼であったなら、必ず童話の悪役と同じ結末を辿るに違いないと一匹で怯えていたものだ。
二つ目の問いは、どうであろうか。
そうなのだろう。だから俺は、二人のもとにいられなくなったのだ。人であるはずがなかった。
…嘘を吐け。未練たらたらだったくせに。
それでは虎のように、迷うはずが無いのだ。人と狼の間を、揺れ動かずに済んだはずだ。
違う。俺は絶えず回顧することで、狼である今と、人と思っていた過去を行き来していた。
それに呼応するようにして、俺も同じように考えていたのだ。
だからこの虎に向かってこんなことを言う資格があるのだと思った。
この虎は何かを失いつつあり、それを心の底から恐れているように感じた。
一見それは、人から獣へと向かう怪物の道の中で当たり前のように現れる、理性の欠如のようなものか。
だが彼が最も失いたくないと泣いたのは、時折人間が振り翳すそれではなかった。
だから泣いたのだ。
人間から獣へと、狼へと成り果てる時に失うものは、
人間の思う孤独なのだろうと。そして、俺の思う、狼のそれでもあるのだろうと。
わかるよ。そんな言葉にすら噛みつきたくなるくらい。
それを惜しむ人間と、それを受け入れたがる獣が戦っていた。
この虎になった男の親友こそが、消えゆく彼の最後の話し相手だった。
それをこの場面は暗示しているのだろうか、思わず横で転寝をするTeusを見る。
…彼が、俺にとって、そうなるのだろうか?
人間である俺を繋ぎとめる、最後の友人。
「…。」
彼がいる限り、俺は人間でいることもできるのかもと思った。
けれど、別れたとき俺は狼になるのだ。
そんなことを思いながら、彼の読んでいた本に目をやる。
…まだ、眠っていやがるな。




