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108. 神のみぞ 

108. God knows


流石と言ったところか。

互いに、内心そう褒め称えていたことだろう。


大狼たちは動脈を食い破られてなお、その場に四つ足で立っていた。


命に触れあった衝撃に、淀んだ水面は静かに震えて広がる。


「……。」

一方は頑なに、自分に背を向けて戦うことを選んでいた。

尾は情けなく股の間へと仕舞われ、両耳は凍り付いたようにぴくりとも動かない。

優しく話しかけてくれることはあっても。

決して、振り返ってはくれないんだ。

俺を護る、ただそれだけの使命を帯びて、未だに立ち塞がっていたのだ。


その表情は、拝むことすらも叶わない。

もう一匹のそれから、間接的に窺い知ることしか出来なかった。


Garmは、狼狽えていた。

呆然としつつ、これを苦悶ととって良いのか、戸惑いを隠せていない。

不覚、という言葉が相応しいように思えた。

加えられた傷の味をじっくりと舌で転がす間もなく、相手の牙は真に命に触れてしまったのだと分かる。

辛うじて助かるまいと、直ちに察せられた顔だった。


そして、それで十分だと言えるほど、彼らは重なる風貌と性格を、幾つも備えている。

Fenrirも、信じがたいと。そう狼狽えているのだろう。

そう容易に、想像ができた。


友達の顔なんだから、当然のことだよね。

…だけど、それじゃあ足りない。

駄目なんだ。



自分から無理やり背を向け、何かと必死に戦い続ける彼の表情は。

絶対にそれじゃない。


俺には、分かる。

哭いている。


Fenrirは、声を押し殺して、歯を食いしばって。

自分には見えないように、泣いていた。



そうだと、自分にだけ、分かったとき。



「Fen……rir。」



やっと、一歩も動けなかった自分を、恥ずかしいと思えた。

「フェンリル…」

白濁して粘土のように固くなった沼から、右脚を踏み出す。

そいつは、ずっと俺に臆病でいるよう纏わりついたが、それを全力で振り払おうと蹴り飛ばす。

足元では、見えない死骸が、俺を悲劇の主人公に仕立て上げようと目論んでいる。

思い通りになんて、させるものか。

「くそっ…邪魔だっ…!」

せめて、せめて、大狼の名前を呼んであげたい。

どうして、黙っていたりなんかしたんだ。

あんなに、話しかけたそうに尻尾を揺らしていたのに。

聞こえないふりをするだなんて。

俺は、とんだ神様だ。


「フェンリルー―――ッ!!!」




“グルルゥゥ…ッ…!!”

乾いた叫びに大きな動きを見せたのは、皮肉にもGarmの方だった。

口元をべっとりと濡らす毛皮の切れ端をぼとりと落とすと、もう一匹の毛皮の主に向き直る。


「ぜぇっ…ぜぇ…!」

対照的な挙動を見せたのは、Fenrirの方だった。

彼は俺の呼びかけに、僅かに膝を折りかける。

俺のどんな言葉にも、力をもらうことが出来ずにいた哀れな大狼は、自分の悲鳴に力が抜けそうになってしまったのだ。


そのまま頭から沼の中に突っ込みそうになるのを何とか踏ん張り、彼もまた尾を翻してGarmを向く。

けれど、その所作はどうにかして、相手の動きに合わせただけの呼応だった。


もう殆ど、決していたのだ。


再び相対したかに思えた二匹の大狼だったが、その様子は対照的だった。

今度こそ仕留めてやる、その気概は一方にしかない。


Garmは、首筋に開いた噛み穴に百足たちを這わせて、縫合と言う名の応急処置を直ちに済ませていたのだ。

彼は既に気道と血流を確保し、次なる戦闘に辛うじて供えられている。


でもFenrirには、そんな傷跡はない。

そんな縫い痕は、俺はつけなかった。

大きく開いた首元の傷だって、Freyaの涙が治してくれたはずだ。


それなのに。

こんなにボロボロになって。

もう、治すとか、治せるとか、そんな領域じゃない。


Fenrirは…。

‘行きかけて’ いる。


「ま、だ…だ……。」

だらだらと流れる血のせいで目の前も碌に見えていなかったのだろう。

Fenrirは倒れかけの前傾姿勢のまま、Garmへと闇雲に突っ込む。


「まだ…終わって…な、い」

そう信じているのは、

まだ俺のこと。

友達だと、思ってくれているからなのか?


ねえ、

Fenrir?



ブズッ……。



「……。」



……?

「あ、あぁ……。」


“モウ良イッ……。”


何かが、獲物を貫く音がする。

そう狼が気づいた頃には、終わっていた。


今まで屍人どもが投げ飛ばしてきたどんな血の槍も、比にならない。

巨大な大木のような血の結晶が、Fenrirの胴を貫いていた。


色の褪せた世界に、膜の裏を流れる血流は毒々しいほどに鮮やかだ。

「そ、んな……。」

見上げると、太陽が、すぐそこまで降りてきていた。


天は、堕ちたのだ。


そいつは壊れそうなほどに汚れた表皮を纏い、

今にも弾け飛びそうなほどに伸びた棘を幾つも抱えている。

そのうちの一本が、世界に歯向かう狼を確かに貫き、仕留めたのだ。



地獄の大狼とその意思が通じ合っていたのかは知る由も無かったけれど。

不運にも、Fenrirだけが狙われてしまうだなんて。


彼は、その場から動かなかった。

いいや。動けない理由を、必死に考え込んでいるように見えた。

目の前の脅威から逃れる術を探るよりも先に、自分の身に起きている異変を突き止めることに必死であったのだ。



遂に、身体の内を貫いてしまった。

そのことが、完全な敗北を意味することを信じらない。

自分は、幾人ものそんな最期を目にしてきた。


けれど、Fenrirは違う何かに、酷く驚いているように見えた。

俺は、死ぬのか?そんな愚問は、とても漏らしそうにない。

彼は、自分が死に至ることにとても鈍く、自分がそれに瀕していることなど、琴線に触れなかった。



彼は、心底驚いていた。


そして、ようやく思い至る。

流れる血の話。

霜の意味を。




けれど、もう遅いんだ。

ごめんね。Fenrir。




“コレデ、良イトシヨウ。”


その場から動けず、空の一点を呆然と見つめていたFenrirの無抵抗な顔面に、Garmの前足が触れる。



ぐちゅ、ズブズブと、爪が喰い込んでいくのに。Fenrirは悲鳴の一つも上げない。




最期にGarmはニタリと嗤うと、ぐいと自分の顔をFenrirに近づけ、こう言い放った。


“フェンリル。”




“足掻イタ夢ナド、捨テロ。”




”Teusハ…オ前ニ救エヌ。”





「うぅ……うっ…あ、あ…。」


Fenrirは僅かに呻き声を漏らすと、身体をぶるぶると震わせ、尾をこれまでにないほどにだらりと垂らす。




狩り尽くされ、全てを使い果たした狼は。

どさりと音を立て、その場に崩れ落ちた。


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