106. 鉄槌
106. Judges Rules
色の薄れた世界が好きだなんて、言わなければ良かった。
やっぱり俺は、冬景色が苦手なんだ。
震えが収まらない。
寒くなんかないのに。
怖くて俺まで、吐いてしまいそうで。
そうしたら君は、殊更悲しそうな眼を向け、立ち上がろうとしてしまうよね。
Fenrirが受けた傷の深さを、歪めぬ表情の裏の苦しさを、もっと良く知りたいのに。
毛皮からどくどくと溢れる灰色の血は、全くもって自分の眼に本能的な危険信号を送ってこなかった。
あれは沼に塗れたのでも、この汚い雨に晒されたからでもないのに。
彼は誰よりも己の纏う外套が美しいと信じていて、それを大切に扱ってきた。
こんな風に、毛皮を濡らすはずがないんだ。
彼は、今にも力尽きそうなほどの重症を負って、戦っている。
そのことが、どうして色の欠けた世界では、伝わってこない?
差し迫った感情として、湧き上がってこない?
なんで…こんなに、穏やかで、安らかな気分で立ち尽くしているんだ。
動けよ。こんな泥濘に浸かってなんかいないで。
本当に冷え切って、固まってしまう前に。
Fenrirの元に、もう一度駆け寄って。
言わなきゃいけない。
“こちら側” に、来ないでと。
来ちゃだめだと。
「…大…丈夫、か?…Te…us…。」
「う…う、あ…。」
飛び散る返り血の一切は、壁となった大狼によって阻まれた。
無謀にも近づこうとする化け物たちは、一部を失っていた身体を真っ二つにされ、或いは潰されていく。
俺はただ、戦いなんて知らない子供のように、怯えて情けない声を上げることしかできない。
「心配なんかしなくて良い。お前の身体に別の異変が起き始めていないか、それだけを教えてくれ。」
「……わ、わかん、ない。でも、…」
「でも……?」
「Fe、Fenrir、が…」
「俺が…?」
「Fenrirがぁっ…」
膝を折り、その場に崩れた。
その胸元にそっと鼻面を差し込み、大狼はいけないと微笑む。
「なんだ?俺が、怪物にでも見えるようになったか。」
「ち、ちがぅっ…違うよぉ…」
どうして、まだそんな卑屈な冗談を続けるんだよ。
昔っからそうだ。平気で卑屈な言葉を並べ立てて笑う。
全部俺達のせいだけれど、そういうところが大嫌いだ。
「もうっ…もう、お願いだからぁ…」
「やめようよぉ……」
「見て、られない……」
泣き出しては、余計に頑張ろうとするだろう。
そう考え俺は直ちに、彼に寄りかかるのを止める。
もう少しでも、負担をかけてなどいられない。
「ならば、そのまま、眼を伏せていてはくれぬか。」
「え……?」
「…あんまり、自分が泥臭く頑張っているところを見られたくはなくてなあ。」
「が…んば、る?」
影でこそこそと、似つかわしくもないことばかりしてきた。
昔からそうだ。
どうしたら、自然とあの子供たちの遊びの一員に溶け込めるか。
何をすれば、俺は父親と母親と一緒にいる時間を増やせるか。
窓の外を眺めながら、必死になって彼らの甘え方を、自分の身体なりに解釈して真似たものだ。
要は…その手の平に、憧れたのだ。
残念だが俺には、怪物の癖に手が足りぬ。無数の脚が余剰に付いている訳でも無く、ただ手が欠けている。
もう二つとは言わない、せめて一本だけ、片腕だけ、持ち合わせていれば良かったのだがな。
けれど、二本足で立つことは…思いのほか、難しい。
今更やってみようとも思わぬが、バランスを取ろうと寄りかかる相手に、どれだけ迷惑をかけることか。
そしてそれを見つかると、余計に俺は、大層気持ち悪がられるのだ。
人間でないという自覚があるから、寄せようとしているのだな。
そのような予測が、互いの内に立つ。
お前は、大した運に魅入られていると言ったな。
俺にも、思い当たる節がある。
やった通りには、ならないが。
思った通りには、なるのだ。
それは、誰よりも素晴らしい神様の力の一端であるとは思わないか?
少しばかり人間らしく振舞ってみようと足掻くこともしてみた。
そうせず大人しくしていた方が、良いと分かっていても。
散々に、悶えたのだ。
近づこうとした。
その通りになったか?
寧ろ、思った通りに、物語は進んだ。
これは、すべて、俺が夢の中で綴り続けた物語の通り。
俺は、こうして苦しんでいるだろう。
漠然とした、恐怖の範疇なのだ。
Teus…
別に、身を削った努力が嫌いなわけではない。
誰かのために我慢を重ねるのだって、厭わない。
憧れた大狼に成り果てるためなら、俺はどんな過ちだって犯すだろう。
それを止めようとする友よ。
ただ…そうして脚をもつれさせ、沼地を這いずり廻る醜態を晒すのが。
堪らなく辛いのだ。
やった通りにならなくたって良い。
ただ、その無様を見て、俺が思った通りに遠ざかっていく皆が。
全部、俺の力の通りだとするのなら。
俺は、無力に打ちひしがれていたいと願いながら。
今日も遠吠えの真似事をしては、遠ざけていく。
まあ、お前は友達だから。そういうところも目ざとく見抜いているのかも知れない。
だとしたら、ありがとう。この不細工な化け物を想っての嘘も、俺は嬉しい。
「何が言いたいか、わかるな?」
「……どうか、見ないでくれ。」
「大丈夫。俺が抗ったとて、その通りにはならない。」
「けれど、俺が思った通りになるから。」
「お前は、生きる。……いや、生かされる。」
「Teus…あの大狼はな、優しい。」
「あいつは、間違いなく狼だ。俺が泣き叫んで、懇願すれば…」
「腹を見せれば。俺がやった通りにはならない。」
「けれど、思った通りになるのだ。俺は、そういう怪物だ。」
「お前の命だけは、きっと嗤って助けてくれる。」
「……。」
彼はそう耳打ちする。
その消え入りそうな最後は。
彼の ”神” としての自覚だった。
「Fen……rir…」
「…待って!Fenrirっ!!」
「来ないでっ…!!」
「来ちゃだめだっ…!!」
「“こちら側”に…入っちゃいけない!!」
Fenrirはにっこりと微笑み、口から灰色の液を零す。
声もなく、呟いたのだ。
俺が、そうした通りには、ならないさ。