105. 藁の上の世界 3
あとがきに背景世界に関する捕捉を含みます。
ネタバレが苦手な方は飛ばしてください!
105. Ghost Rules 3
これは…雨か?
悪魔の植物から垂れる乳液が、ぼたぼたと毛皮にこびり付く。
それは俺が舌を垂らして浴び続けてきた異形どもの返り血よりも、粘着した。
染みつき、染めているのだ。
俺もまた、“そちら側”に引きずられつつある。
再び弾け飛んだ子嚢から溢れ出したどす黒い液体に混じる、白い種子。
それがGarmの告げる絶望だった。
無数の肉塊は地上に降り注ぐと、よろよろと立ち上がって、忽ち軍団を形成する。
幾ら片付けようと、種は尽きぬぞという訳か。
どの世界にも、神様のような奴はいるのだな。
この大狼は不運にも祝福され、そのような力を与えられてしまったのだ。
俺のように、図体ばかりがでかく、頑丈な臆病者であるよりも、余程良いだろうか。
だって、Garmは少女を、そうして守ることが叶うのだから。
震える膝を、折りそうになった。
俺では、畏怖の軍勢など呼び起こせぬ。
此方の神様だって、そのような力は持ち合わせていないだろう。
こいつは、運に好かれ、単独で生き抜いてきたような男だ。
もしかしたら、俺のまだ知らぬような隠し玉を懐に秘めているのかも知れないが、きっと現状を打開する助けにはならないだろう。
しかし、それらは俺が、たった一匹で切り抜けてきた烏合の雑魚どもに変わりない。
また何の造作もないように気取りながら、彼らを屠って見せれば良いはず。
それとも重傷を負った俺では、こいつらの対処に回ることさえも困難であると、Garmの眼は見ているのか。
確かにもう弱り切っているのなら、あとは嬲るだけだ。
俺が投了し、情けなく腹を見せてか細い声で哭けば、それは彼の願った通りになる。
狼の誇りに従えば、そうする。
だが、慣れ合ってしまった友達を想えば、俺はもう、そのような矜持は捨て去らなくてはならない。
“オーイ、オ嬢。一度降リテクレ、耳ノ後ロガ掻キタイ。”
「あら、なら私が掻いてあげるわ。Garm。」
“ア、アリガトウ。デモ、ソウジャナクテ…”
その場に弧を描いて座り込んだ大狼は、頭上に控えていたお嬢様の姿を見たいと遠回しに諭す。
“ソノ、雨ガ酷クナッテ来タダロウ…?ダカラ俺ノ陰デ、雨宿リスルト良イ。”
「でも、私はこの雨が大好きよ?ずっと浴びていたいぐらいに。」
“ウム…俺モ、大好キダ。”
彼は高所が気に入った主人を降ろすことを諦め、せめて視界に彼女を入れようと、わざと顔を傾け勾配を作ったりなどして見せる。
「きゃあっ…Garm!落っこちちゃうじゃないっ!」
“フフフ…済マナイ。”
大した余裕だな。
最早、眼中にもう一匹の大狼は脅威として無いらしい。
そう、この仔に触れたくば、
まずはその歩兵どもと対峙してみるが良い。
彼は牙城の上から、そう告げているのだ。
この世界の王として。
さあ、どうする…?
「フェン…リルッ……!Fenrirっ…!!」
「……。」
腐った泥に脚を取られ、外套を踏んづけ、転びそうになりながらも、必死で大狼に駆けよって来る。
声を枯らして俺の名を叫ぶ、もう一人の神様。
対照的だ。こんなにも惨めな思いをさせているのが、情けなかった。
「そんなぁっ…Fenrir、しっかりしてっ…」
泣くなよ。ぶっ倒れているならまだしも、ちゃんと四肢で立っているだろうが。
「…うる、さい、ぞ。いつも…耳元で、大声を出しやがって…。」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ?こんなに苦しそうに吐いて…すぐに…」
「その耳障りな叫び声が、今はやたらと頭にガンガン響くんだっ!!」
「っ……。」
「…ごめん。」
もうこいつのことを背中の上に乗せ、あの狼のように応戦する真似はしたくなかった。
あんな簡単な子供騙しに引っかかってしまったのも、やはりTeusの安全を最優先に思うあまりに、過剰な反応を示したせいだ。
あいつは油断したなどと抜かしたが、もう次は無いと思った方が良い。
流石に二度も同じ手を指しては来ないだろう。しかし間違いなく、今度は両方の首を取られてしまうだろう。
少なくとも俺に…Garmのような覚悟が無い限り。
「どうやら、俺は…」
「思い描いていたような、大狼…ではっ…無かったらし、い…。」
お前のせいで、再び込み上げてきた胃液をその場に吐き出せない。
呑み込もうとすると喉に溜まって、爛れ、古傷が疼く。
掻き毟りたいほどに、奥が痒い。
「…俺から、離れるな、よ…Teus。」
だが俺は、掻いてくれとは頼まない。
抉ってくれと、強請んだりもしない。
もう、俺は誰かの牙に、甘んじたりしない。
「少しぐらい、喰い応えがあっても、良いのだ…。」
親切にも、警告までしてくれたのだ。
狡猾な一撃は、絶対にお前に触れさせないさ。
血走った、瞳を閉じろ。
よし、もう一度腐った臭いを吸い込め。
耳を動かし、化け物の位置を全て捉えるんだ。
最後に、隣でべそをかいている友達のことを、間違えないように覚えておけ。
そうしたなら、もう怖いものなんてない。
もう一度、Garmに爪が届くまで、同じことを繰り返すだけだ。
「大丈夫だっ、動かなくて良いっ!!」
「えっ…!?」
俺は伏せた顔を上げると、再びTeusに向けて遠距離から射出された血反吐に爪を突き立てた。
ガシュッ…
「うわっ…!?」
砕けた血反吐の結晶槍が、ばらばらと砕けて沼の中に溶ける。
先よりも、柔らかい気がした。爪が思ったよりも喰いこみ、手ごたえが軽い。
なんだ?
溶けかけて…いる、のか?
いや、考え過ぎか。
ずきりと頭が傷んだが、それだけで済んでくれた。
御託を並べる時間も、大事なのだな。お陰で十分に休めた。
これなら、まだ勝負は分からない。
最悪の事態は、免れたのだ。
「さあ…次は、どうしてくれる?」
唯一、その軍団に認められる変化があるとすれば、そいつらから”色”が消え失せたことだろうか。
突発的に色が消え失せたのではない、被膜の破けた子嚢に浮いていた種子の色がもとより白かっただけのこと。
従ってこれは、Teusの両目に現われた異変とは少し事情が違って来る筈だ。
しかし、視界一面に並ぶ欠色の肌は不気味で、やはり俺にも、着実にその血とやらが注ぎ込まれているのだという嫌な予感を拭えない。
見据えるんだ。
終局まで、あと何手が必要になる…?
大丈夫、描いた通りに、最期には事が運んでくれるはずなんだ。
俺は、運が悪いからな。
「もうっ…もう、限界だよ…」
「…?」
「無理だ…見て、られない…。」
俺は絶対に、腹を見せたりしない。
こいつが隣で、毛皮に寄り添おうとしてくれている限り。
しかし、隣で佇む英雄の成れの果ては、今の一撃で完全に怖気づいてしまったようなのだ。
彼方は、こんなにも傷ついた怪物を相手に、まだ容赦する気が無いのだと。
「もう良いからっ…逃げよう、Fenrir。」
「…に、げ…る?」
「…このままじゃぁ…ふぇ、Fenrirがぁ…」
「Fenrirがぁっ…死んじゃうぅ…。」
「……。」
「嫌だよぉっ…俺のせいでっ…Fenrirがぁっ…」
頬の毛皮に抱き着いたTeusの身体には、俺が喜んで塗りたくった血が、べっとりと纏わりついた。
…。
いいや、それは、俺のものか?
分からないな。
お前にも、分かるまい。
何故なら、お前に目には、それらが全て、黒ずんだ何かにしか見えていないのだろう?
その旨そうな料理を楽しむぐらいしか能のない鼻も、狼の血を嗅ぎ分けられまい。
お前には、死にかけた狼の予兆なんて、分からないのだ。
「Teus。」
「俺は、まだお前を守りきる夢物語を、描いていたい。」
「なっ…なに、ばかなこと…!」
「まだ、俺は戦える。」
「…いや、戦わせてくれ。」
「戦いたいのだ。」
「少しぐらい、狼の名を…挽回させてくれ。」
「一緒に…いたい、のだ…。」
お前が飲んでしまったという血が、俺にも流れ始めている。
そんな歪んだ共有が、今は途方も無く喜ばしい。
「’こちら側’ に…」
俺も、半歩だけ立ち入ろう。
その世界へ。
いつもFenrirの話に付き合って下さり、ありがとうございます。
投稿が遅くなり、申し訳ございませんでした。
キーボードが壊れ、shift+何か=強制終了とかいう悪魔のキーが産まれてしまいまして…。
暫く執筆に支障が出ていた次第です。
もう復旧しましたので、頻度は回復すると思われます。
さて、最近になって血筋がどうたらというお話をするようになったのですが、これは北欧神話の背景世界に加え、狼の血というものを交えた設定になっております。
詳しい考察はお任せするのですが、参考までに頭の中で描かれている世界観というものを(キーボードが届くまで暇だったので)描いてみました。相も変わらず雑の極み。
余り今回の章は文字数をそうした説明に割きたくなかったので、読みづらい想いをされているのではないかと心配になったためです。
それくらい分かってるわ、という方は答え合わせ程度に留めて頂いて、Fenrirのことを見守って頂ければ幸いです。
ネタバレが嫌だという方は、もちろんスルーしてください。
もう暫くしたら、また近況を交えながら小話でもしようと思いますが、此処からが長くて大変な闘いです…。某麻雀漫画のようにならないよう、休まず書き続けて行きたい所存です。
それではこれからもなにとぞ。
2022.6.19 灰皮