105. 藁の上の世界
105. Ghost Rules
“俺達ガ奪ワレタヨウニ、奪ッテヤロウ。”
行儀の良いふりは、もう止めだ。
俺とGarmは、たった今、互いに狼であることを止めたのだ。
此方は縄張りの道理を外れ、彼方は同胞の匂いを忘れる。
そうすることで、都合よく誇りをおざなりにした。
背中に乗せたかけがえのない友には、目隠しをしてしまおう。
きっと、見せたくないものを見せるだろうから。
話し合いが終わったら、毛皮を摺り寄せるから。
そうだな。お前が過ごしたい人と、狼と一緒にいる世界でも、瞼の裏に描いていてくれ。
できるだけ、鮮明でなければならない。
色が、伴っていなくてはならない。
それは、お前が取り戻さなくてはならないものだ。
“グルルァァッッ!!”
先制の咆哮は、言わば不意打ちを望まない精神の表れだった。
まだまだ甘いな。俺は。
この狼は、賢い。少女を頭の上に乗せることで、自分の尾からの距離を稼いでいる。
従って、直接玉の首を刈り取ることは即座に諦めた。
それでも相手が背を向けている分まだ、此方が寸分有利だ。
Garmが此方を振り向いて応戦するまでの時間と、俺の爪が胴の肉に届くまでの時間。
それらは殆ど互角で、しかし僅かな差で俺が届く。
Garmの後ろ脚が跳ね、血だまりが孤を描いて飛沫を上げる。
この狼も、十分にそのことを了解していると思われた。
その上で、俺の一手に対し、制限時間付きで、回答しなくてはならない。
“……。”
どうする?
驚くほどに、落ち着いているようだが。
迷いのない所作は、如何にも歴戦という感じがする。
その傷の数だ。随分と、苦しい思いをしてきたと見える。
弱い狼ほど、良く吠えるとは言うが。
俺たちはたった今、その名を投げ捨てたのだったな。
二択を、仕掛けたつもりだ。
一つは、此方から距離を取ることで初撃を凌がせ。
応戦に掛けるまでの時間を更に奪い、確実に有利な盤面を押し付け続けること。
もう一つは、ビハインドを承知の上で此方を振り向かせ。
多少のダメージを喰らいつつも、それ以降を対等に立ち回るための必要な犠牲と見なすこと。
前者で相手が被るリスクは、初手を切り抜けても、そこから挽回できる見立てが俺に依存したままであること。
後者のそれは、俺が端から少女の首を狙うことを念頭に動いていた場合に、自ら牙までの距離を近づけてしまっていること。
未だに俺には、その娘を傷つける度胸が無いと高を括るだろうか。
それとも、本気だと受け取って、安牌を取って様子を見るか。
確率で言うのなら…九割方、俺を臆病者と見做していることだろう。
当たりだよ。
だから俺は、そちらに全て賭ける。
大きな空振りは、無論相手に好機を与えることとなる。
先手と後手が、入れ替わるのだ。
そうなれば、今度はこちらがTeusを念頭に置いたプレイングを迫られることになるだろう。
そして確信の一つに、Garmは容赦なく、もう一つの命、いわば本体を狙いに来る算段で二択を迫って来る。
無垢を装った小娘はともかく、こいつはTeusが何らかの病に侵されることを、何とも思っていない。
そうなれば、絶対に外せない。
確かにその小さき命は狙えないが、代わりにお前が目を見開くほど顔面に迫ってやろう。
互いが合意の上で、存分に真正面からぶつかり合おうではないか。
ザッ……
“……!?”
泥濘に爪を喰い込ませ、Garmの四肢がびたりと静止したのだ。
振り返って此方を睨む瞳だけが、痙攣したように泳ぐ。
なん、だ…?
その狙いを理解するのに、俺は時間をかけ過ぎた。
此方が攻めているとばかり、考えていたからだ。
空しく過ぎ去った時間が、俺に与えられた有利を帳消しにする。
いいや、相手も動くことを止めたはずだ。
まだだ。まだ俺のほうが先に動け…る…
「ばかっなっ…!?」
それをブラフだと結論付けた矢先だった。
頭上に、疎ましい感覚が走る。
それはずるりと毛皮を滑り、なんと鼻先へと垂れてきたのだ。
「くそっ、何してるっ!?」
Teusだ。
奴は、俺の逡巡を待っていたのだ。
無意識な減速で、背中に乗っていたこいつを相対的に誘き出しやがったのだ。
何と言うことだ。
ちゃんと掴まっていろと、いつも言っているだろうが。
これはとんでもない悪手に変えさせられた。
俺はみすみす、Teusの命をGarmの目の前に晒しだしてしまった形になる。
「間に合うかっ…?」
反射的に口元まで滑り降りてきたTeusをばくりと口に咥え、そのまま首を振ってGarmの反撃範囲から強制的に離脱させることを試みた。
そうすれば、少なくとも最悪の事態は免れられる。
痛い勉強代として、一発は甘んじて俺が受けよう。
完全に彼が脱力してくれていて助かった。
これでTeusが慌てて手足を突っ張るようなことをしていたら、うっかり牙で切り裂いてしまいそうで恐ろしいことこの上ない。
取り合えず距離を取り、仕切りなおせるところまで、今ここで確定させてしまおう。
「許せ、Teusっ!!」
済まないな、今日はお前を口に入れて、振り回してばっかりだ。
鼻先で踊る彼の身体を捉えると、甘噛みを心がけつつ、渾身の力で首を振るった。
しかし…
「え…?」
そいつは、思った以上に ’滑った’ のだ。
優しく口の端で包み込む筈だった身体は、四肢をだらりと投げ出したまま零れ落ちる。
吐き出したものは、Teusでは無かったのだ。
「なんだ、これ…!?」
生ける、屍だ。
紅い世界で不気味に輝く、真っ白な肌をした死体だった。
俺が、嘗て何処かで目にした、あの怖い人たち。
「Fenrirーーっ!!!」
背後で、彼が金切声を上げる。
ああ、なんだ。
ちゃんと降りていてくれたのか。
それなら、そう言ってくれれば良かったのに。
しかし安心した。お前が無事なのなら、それでよい。
もう、遅いのだ。
…きっちりと、咎められなくては、ならないな。
どうにも、やりづらいのだ。
減速しきった俺の身体は、間抜けにも死体を掴もうと首を伸ばした状態で、頭だけで振り向くGarmの口元へと突っ込んでいく。
“ソノ甘サガ、命トリニナルト思ワナイカ?”
“オ前ハ…本当ニ、優シイナ。”
無様に突っ込んでいく俺の鼻面を、巨大な右脚が叩きつける。
“…霜ヨリ逃レシ、大狼ヨ。”
俺は容易く地に伏せられ、喰い込む鋭利な爪に、
苦悶の叫び声を上げたのだ。