104. 地獄の門番
104. The Hellhound
“モチロン良イゾ!オ嬢ガ望ムナラナ。”
Garmはその願いに耳を傾けると、喜び勇んで腹ばいになり、鼻先を少女の為の階段として差し出した。
“ガンバレ!モウチョットダ…”
如何にも無邪気な子供らしい。無理もないことだ。
恐らくは、俺の背中に乗っているこいつのことが羨ましくなって、真似をしたがったのだろう。
実際、お目が高いと言って良かった。Teusが享受している特権の尊さにすぐさま気が付くとは。
“高イ所ハ平気カ…?怖クナッタラ、スグニ言ウンダゾ。”
「全然…でも降りるときは、ちょっと手伝ってね…?」
“アア。落ッコチル心配ナンテ、シナクテ良イ。”
その可愛らしいやり取りと言ったら、こんな状況でなければ、俺もつられて溜息など吐いていたかもな。
遊具を懸命によじ登る我が子を見守るその表情は、微笑んでいた。
口の端が吊り上がり、裂けて糸を引いているのがそう見えただけかも分からないが。
はっとして俺は口をきつく結び、その和やかなやりとりをこれ以上見守る必要はないと言い聞かせる。
背中から零れ落ちかけていたTeusが体勢を立て直したことを確かめると、ゆっくりと後ろ足を水面に滑らせた。
未知の脅威と対峙するとき、狼はいつだってそうする。標的との距離を保ちつつ、より相手を詳しく観察するため、無意識に動き回る癖があるのだ。
間合いと力量を探る、そんな感覚に近い。
相手は、此方から一撃を繰り出すに相応しい存在であるか。
そうなら、それはいつ、どのようにだ?
相手に危害を加えることが妥当でないなら、その存在に対して、俺は退くのか?
それすら難しいと考えるなら、寝転がって腹を見せるのか?
それらを一瞬のうちに読み取り、互いが相手に示さねばならない。
手札から、直感的反応に近い策略で1枚を選ぶ。殆ど迷うことも許されずに。
提示された意思を、お互いがまずは確かめようではないか。
お前が、狼であっても、狼ではないのであっても、
それぐらいは礼儀として弁えているはずだ。
「……。」
殺れる。
それが、俺の方が導き出した結論だ。
喉元に潜り込んで噛みつき、それから藻掻き暴れる巨体を押さえつけることのできるその確実な射程圏内に、その怪物は余裕で収まっていた。
俺と殆ど変わらぬ彼の巨体は、仕留める上で弊害になることはないと思った。
実績は持ち合わせていなかったものの、そんな確信があった。
…いいや、一匹だけ。対峙したことがあったか。
まさか、あの悲劇が此処で活かされようとは。
残念ながら、こんなにも巨大な相手と言外の対話を交わす経験は、日常の狩りにおいてまず有り得なかった。
しかし、致命傷を負わすことのできる部位は、より狙いやすくなっている、動きだって重心から離れるほどに鈍く、俺との差は広がると考えて良かったのだ。
彼が思い描いた通りの狼であると仮に想定するなら、俺はそれを遥かに凌駕して見せる、祝福された狼であるのだ。
そうと結論付けるのが早計であるのは、分っていた。
未だにこの獣の全容を飲み込めず、彼が間違いなく同胞であると受け入れられない。
でも…
でも、あの狼は、教えてくれた。
俺は、全身の力を振り絞って、勝たされるだろうと。
俺の意思とは無関係に。
殺してなんか、貰えるはずがない。
“ヨーシ!ソレジャア、出発ダ!”
「きゃーっ!ガルムーっ!!」
彼は、自分が無償の愛を注いでいる少女に夢中で、此方には見向きもしない。
なんとも和やかだ。それだけで、彼と少女にこの世界の浸食の主犯である自覚は無いのだと分かる。
罪の意識は、奪った後ろめたさは、まるでない。
この少女の無垢な冒険と、それを自分のことのように喜んで伴う番犬。
故に彼らは、やはり悪役などでは無かったのだ。
幾ら少女の言うことが絶対であったとしても、油断では済まされないような空気を漂わせている。
あの反撃だけで、俺はこの狼には、歯牙にもかける必要がないと思われてしまったのだろうか。
だとしたら、好都合とまで言える。
これは少女ではなく、そのお付きに対して反撃する千載一遇の好機なのだ。
Teusがいる手前、この娘はやはり傷つけてはならない。
幾ら人とはかけ離れた容姿をしていても、切っ先はどうしてもぶれる。
お前を誤って傷つけた記憶が、必ず無意識に俺を惑わせる。
やるしかない。
片を付けるなら、今だ。
あいつを、この場で瀕死に追い込む。
少女の夢を背負った彼は、重厚な甲冑に毛皮のマントを身に着けたようだ。
思い通り優雅に動けまい、俺も背中のこいつが邪魔で仕方がない。
ならば、その鎧の隙間から、貫いてやろう。
造作もないことだ。
彼のような奇襲を、此方から繰り出せる。
尊大な態度で振舞ったが為に隙を突かれたものの、俺はまだその実力に於いて負けを認める訳には行かなかったのだ。
このままでは、彼に貰った狼の名が廃る。
Garmは未だに頭上で座ろうとしない少女に手を焼いている様子で、一切俺たちのことを構う余裕が無いようだった。
これでは、真正面から取っ組み合っても、勝てそうだ。
増してや予備動作を伴わぬ居合で、決して俺を上回る反応を示すことは出来ない。
“いつでも、いけるよ。Fenrir。”
「ああ……。」
背中の上では、Teusがもう飛び降りる用意を毛皮の両手に合図で込めていた。
彼のことは、空中で分離させて良い。
既に、呼吸は合っていたのだ。
此方だって、負けてはいない。
「……。」
「……くそっ。」
「Fenrir…?」
それなのに、俺は動き出せなかった。
この期に及んで、俺はまだ、圧倒的な力量差の証左として、相手を降伏させることが叶う可能性を探っていたのだ。
もう既に、数刻前に導いた選択は鈍り、価値を失いつつある。
いいや。それどころか、信念を拠り所とした過った判断よりも質の悪い癌だ。
俺は躊躇などする余地があると勘違いしていたのだ。
うまく行けば、不要な戦いを避けつつ、ひょっとすると彼を仰向けに寝かせることができるかも。
もしこの灰毛皮の魔物が、己の力の及ばなさを悟るだけの才知を持ち合わせていたならば。
彼女には、手を出さないでくれと懇願して平伏することを選んでくれると期待しても良いのではないか。
誰がどう見ても、この存在が全身全霊を賭して少女を護ろうとするであろうことは否応なしに分かることだ。
であれば、己が身を犠牲にしてまで、戦い抜くようなことを、きっとしない。
戦う姿を、誉などとは言わないでくれるだろう。
お前は、僅か数十秒の匂いで、そう信じるに値するように思えた。
だからこそ。
俺はこの二人組に対して、紳士的でいたいのだ。
Teusには、そう出来なかった。
縄張りへの侵入者に対して、今度こそ俺は、狼らしく振舞いたい。
間違いなく、あの怪物の弱点は頭上ではしゃぐ少女の笑顔であろう。
それを逆手に取るような、そんな真似は、できない。
したくない。
そこまで織り込み済みと言うのなら。
この戦いは、対等であるように見えて、圧倒的に不利な展開を強いられるだろう。
“ドウシタ?”
……?
“安心シロ。オ前ガイクラズル賢ク振舞ッタッテ、オ嬢ニハ爪一本、触レサセナイ。”
「それは、どうかな?」
“十分ニ、時間ハクレテヤッタ筈ダ。”
俺の優柔不断から来る敗着を悟ったのか、
少女に抱き着かれた耳を嬉しそうにぴくぴくと跳ねさせる。
それから、Teusの方へ一瞥をくれてやると、
“フフ……オ互イニ、苦労シテイルヨウダナ。”
次の瞬間、Garmは不敵に嗤っていた。
百足たちは畝って、騒ぎ出す。
それに合わせて苦悶の表情を僅かに浮かべると、
狼は目線を逸らし、初めて自分に対して敬意を示したのだ。