102. 霜の血 5
102. Jotun’s relative 5
獲物の追跡など、お手の物だ。
鼻は腐った匂いで完全に潰されてしまっていたが、ぺたぺたと裸足が血だまりを走る音を瞬時に聞きつけると、
俺は瞬時に行き先を定めてスピードを上げた。
追い付くまでに、どれほどの時間を要するかのと思案する必要もないらしい。
あちらはTeusと違って、化け物の背中に乗って操るようなことをせず、徹底して自分の脚で森を探検することを選んでいた。
彼女は、殆ど逃げているとは言えなかったのだ。
のっぺりとした枯れ木のシルエットを縫うことも、お手の物だ。
世界を真っ白に染め上げるヴァナヘイムの吹雪を思えば、良好な視界に未知の存在さえ想像させない。
強いて文句をつけるなら、泥濘に爪が引っかかり辛いのが、少し煩わしいぐらいだろうか。
この期に及んでまだ邪魔をしようと沼底から這いあがってくる住人たちは、沈もうとしない俺の脚を引っ張ろうと纏わりついて来るのだ。
皮肉なものだな。
名前に祝われ守られていることを、これ程有難いと思ったことは無い。
この森で培ってきた狩りの能力というのは、狼を超えて汎用的だ。
どのような景色の中であっても俺は、生き抜くために必要な獲物との距離を、確実に詰めることが出来る。
お前の言う違和感とは、一体どのようなことを言っているのか。
それは、狼の嗅覚とは別の知覚であると言わざるを得ないぞ。
無用な想像を、巡らせるだけの猶予があった。
「脚が、細いように見えた…か。」
久しく人間の子供をじっくりと眺めることをしていない。
言ってしまえば、幼き日常に陰から眺めた公園で遊ぶ、神々の子の姿。
あれが精いっぱいの視覚的知識だった。
彼らは今頃もう、立派に大人びた青年だろう。俺ほどに怪物的な成長を遂げている奴はいないにしても。
ひょっとするともう、その名を誇り高きアース神族の一人に連ねているだろうか。
がらりと風貌を変え、装いもTeusのように長衣を好んで纏っていたとしても、
きっと臭いで、おお、あの子か、大きくなったなと、分かるのだろうな。
…いけない。
もう二度と逢わぬ輩のその後に思いを馳せて、何の意味があると言うのだ。
苦しく、息が続かぬだけだろう。今はその時ではない。
とにかく、その少女の脚がどうであるだのと形容するのに必要な判断材料を、俺は残念なことに持ち合わせていないと分かった。
それはもう、仕方のないことだ。
今の意識を保ったまま、身体だけが時間を何度遡ることができたとしても、結局は身につかぬ知見であったに違いない。
狼の脚は、身に纏う毛皮のせいで、驚くほど細い脚で巨体を支えているように映るもの。
俺には、なんの疑問も抱けなかった。
ふと、思うことがあった。
…ではこの幼き仔狼は、遊び耽る彼らの何処を眺めては、仲間に混じる空想に身を沈めていたのだろうか。
顔か?二本足で駆けるその姿か?
それとも、人間の子としての、もっと抽象的な要素だったろうか?
…どれも、違うよな。
人の子の群れへと加わりたかった。
ただその思いが視線を釘付けにした。
どの辺りの肉のことだろう、その問いかけは正しく無い。
遊び相手としての空想に必要な素材を、ずっと無意識に貪っていたのだ。
「脚があまり…良くないのだな。」
彼の言う不自然さが、ようやく自分のものとして共有される。
その少女は、俺と一緒に遊んでくれる相手として、相応しく無かったのだ。
だから彼女の容姿は、人の子として響いてこなかった。
戦乱の最中を、小さき娘が駆けて喜びの悲鳴を上げ続ける。
それ自体が、異様だとさえも。
遂に、標的の目前へと迫った。
雑木林に局所的に開けた空き地は、何処か見覚えがある。
彼女は何時ぞやの、木漏れ日に照明を当てられた、あの美しい小鹿のようだ。
自分が、この舞台に一人佇む主人公であると知っている。
ゆっくりと歩みを進めながら、降り注ぐ月の光に目を細め、
突如として与えられた、新たな景色を楽しんでいるように思えた。
あの時と同じだ。
もしこれが戯曲なら、俺は間もなく登場する悪役なのだ。
何気ない、それでいて異様な営みが、こんなに幸せで嬉しく思えるのに。
俺はこの主人公を、喰い殺してしまうのだから。
「……。」
もう獲物が此方に気が付くまで、息を潜めるようなことはしない
一瞬で、けりをつける。
押し倒して、喉元に爪を突き立て、ほんの少し、喰い込ませるだけで良い。
その間に、Teusが叫ぶような勇気があったなら。
まあ、お前の意思を尊重して思いとどまってやろう。
後々、恨めしく文句を垂れられては困るから。
間合いなど、考える必要もないか。
“グルルルルゥゥゥゥッ……!!”
水面が揺れるような唸り声を上げ、強引に彼女を狼の居る方へと向けさせる。
普段なら、そのようなことはしない。威嚇で居場所を知らせるなど、するだけ時間の無駄だ。
今は、恐怖で硬直させて、捕えやすくするためだけのこと。
決して、そのような狩りが好きなのではない。
しかし、それがいけなかった。
「……!?」
顔だけを此方に向けた彼女を見て、俺は絶句する。
そこには、右半分とは、別の表情が隠れていたから。
腐っていたのだ。
頬が、削げ落ちている。
瞳は落ち窪み、肌は紫に変色し、少女に似つかわしくない醜い皺を、深々と刻んでいたのだ。
笑顔を向けているのかも、半身では分からなかっただろう。
「…けれど、遊んだ仲間を、覚えている。」
「え……?」
その時、俺は懐かしい面影を視界の端に捉えることになる。
幼少の記憶の、その誤った想起だ。
彼女は両手を広げ、満面の笑みで、こう叫ぶ。
「おいで…!」
…そう。
遂に、やって来たのだ。
「Garm。」