102. 霜の血 4
102. Jotun’s relative 4
返り血を一滴も纏わぬTeusを背中に乗せると、俺は満足げに唇を捲らせ牙を剥きだした。
彼の視線が頭上へと消え去ったことで、耳を除いた表情が解放される。
仏頂面を心がけていても、俺の舌は知らずのうちに、垂れて笑顔を形作っていたことだろう。
Skaのそれを毎日見てきた奴だ、それぐらいは察しているに違いない。
この窮地を、少しもそうと感じられていないことを。
そう、俺はすこぶるご機嫌であったのだ。
ほら、どうだ。
お前たちが命を賭してまで奪いたがった神の名は、今もこうして傷一つ付けられずにこの狼に守られているぞ。
まだ一滴の毒の与える影響ばかりが、気にかかっている。
それがこの軍勢が無力であることの、何よりの証左ではないだろうか。
俺さえも飲み込んでしまえそうなあの大蛇も、血と灰の色の世界の主も、所詮は俺の行く手を阻むことはしなかったという訳だ。
「では、行くとするか。」
まるで旅立ちの新たな朝を告げるかのように、俺は朗らかな声をかける。
如何にも勿体ぶった様子で立住まいを整えると、添えるようにして、尻尾を高々と掲げ、ポーズを取ったりなどする。
それから舌をくちゃりと鳴らして鼻を舐めると、自分の匂いで腐臭が紛れて良かった。
ほんの少し、ことが自分の思い通りに進んだくらいで、こんな図に乗るようなことを俺はしなかっただろう。
狩りに於いて、傲慢な態度はいつだって身を滅ぼしてきた。
この森を誰よりも速く、長く駆けることのできる狼であっても、飢餓には勝てず、神々からは身を隠すほかなかった。
そのことを身を以て経験してきたはずの自分が、今まさにこの瞬間に酔い痴れている。
俺は、錆びた血の匂いを嗅ぎ過ぎたのだ。
「はぁ…。」
「邪魔だ。」
浮足立って良い。
俺が背中の荷物に、煩わしい思いをさせたことなど、嘗て一度でもあっただろうか。
致命的な一撃を躱すような、仰々しい動きなど必要がない。
群衆を掻き分けるように、ちょいと前足で宙を引っ搔いてやるだけで良かったのだ。
それだけで、行く手を阻む蝙蝠羽の化け物は地に伏せ、耳障りな断末魔を上げて藻掻く。
鋭利な切っ先で吐かれた血反吐だって、俺の毛皮に傷一つ付けられやしない。
彼を振り落とさぬよう毛皮を震わせれば、木陰に滴る雨水と同じように弾かれる。
図体ばかりがご自慢の獣どもよ。
道中のモブとして余りにも頼りないがゆえに、
貴様らを相手取ることだけが、面倒極まりない。
「この神は少々、先を急いでおられる。」
道を、譲ってはくれまいか?
先ほどの応戦で、時間を使い過ぎてしまったようでな。
Teusの前で、良いところを見せたくて張り切ってしまったのだ。
予てより、この時を待っていたのかも知れない。
俺だけに、与えられた。俺だけにしか救うことのできない友の窮地を、絶好の表舞台を。
こいつらが、総出で用意してくれたのだ。
ずっと、待ち望んでいたのだ。
Teusの命を、救うことのできる夢物語。
本当の意味で、恩返しができる、この舞台を。
誰の力も、いらない。
此処にはSkaも、群れ仲間たちも、最愛の女神もいない。
この森から、ずっとお前たちの活躍を、羨んできたものだ。
ともすれば、妬んでいたのかもしれない。
この神の命を何度も救い、最高の友として、妻として、傍らに立ってきた、彼らを。
俺も、そんな風に。憧れてきた。
運命を担うのは、今度こそ、ただ一匹。
その配役には、ああ、この狼こそが相応しいとは思わないか。
忍び寄る死の影に怯え泣いた俺に、Teusはいつも笑いかけてくれたよな。
時折、その笑みが信じられなかった俺は、苛立ちさえも覚えることがあったけれど。
こうして季節がぐるりと廻った今にして思えば、笑ってくれるお前が、それだけで俺を救う偉大な力の担い手であったのだ。
大いなる、優しい神様の、その真似事をしてみたい。
立ちはだかるどんな脅威にも、不敵に笑ってみせるのだ。
大丈夫だぞ、Teusよ。
彼らに見せる怯えた表情を、こちらにまで向ける必要はない。
直ぐに、お前の為に、道を開いてやろう。
そうしたら、また話をしながら、森を歩こうではないか。
“グアァ…ア…アァァァァァ…アアアァァァ…”
「ふん。もう少し、歯ごたえがあっても構わなかったのだぞ?」
強すぎたのだ。
これは、想定されていなかったことだ。
筋書には無かったに、違いない。
そうか…。
そう告げられた、覚えがある。
俺は、狼である以上の存在であったのだ。
「…Teusよ。」
「聞こえているか?Teus。」
「えっ…!?あ…うん。」
「此処からは、お前の表情が見えぬ。怪我は、無かっただろうか。」
「だっ…大丈夫だよ。心配してくれて、ありがとう…。」
「ならば良い。お前はそうして、護られていれば良いのだから。」
「……。」
「さて、大方は片が付いた。待たせたな、これで自由に動けそうだ。」
「いや…油断しないで、Fenrir。どんどんあの子に近づくにつれて、あいつらの数が、多くなって来てる気が…。」
「そう思うか。やれやれ、主を護りたい気持ちは分からぬでもないが、匿う脳があっても良いだろうになあ。」
「だからやっぱり…罠なのかも。」
「誘われているなら、猶更向かうべきだ。待っていても、始まらぬ。」
「そうだけど…くれぐれも、気をつけてね?」
「ふふん…今までの戦いぶりでは、説得力に欠けてしまっていたかな?」
「そんなことないけどさ…。」
「ねえ、本当にFenrir、大丈夫なの?何処も、おかしいと所はない?」
「心配してくれるのか。お前はやはり、優しいなあ。」
俺は是非とも、あの少女とは話がしたく思うぞ。
今ので確信に変わった。
それが叶わぬと言うのなら、少々面倒なことになりそうだからだ。
幾らそいつが元凶だと憎み蔑んでも、首に牙を突き立て殺してしまうのは…Teusの前では気が引ける。
彼にもその姿が等しく見えているというのであれば、穏便に済ませようではないか。
俺は友達だから、良くわかるのだ。
その時には、お前はきっと、変な気を起こそうとする。
あの娘を庇って、愚かな勇気を示すに違いない。