17.杜若 1
17. Iris
その翌日に早くもTeusは俺の元へと訪れたかと思うと、随分と慌てた様子でこう告げた。
「急ぎの用事が出来たんだ!またあっちに戻らないといけない…。」
悲報にしては狼狽えた様子はなく、恐らく自分が知る由もない事情で呼び戻されてしまったのだろうと思った。
「そうか…大変だな。」
双方に振り回されて、長旅を二度も繰り返す羽目になったTeusを労い、ごめん、なるべくすぐ戻るからと謝るのを嫌な顔、寂しそうな顔一つせず快く送り出した。
何故だろうと不思議に思い、考えを巡らすことすらしなかった。それだけ眠たかったのだ。
あまりに心地良い日和で、俺は光を嫌うように目を細める。
やはり春は好きではなかった。
あれだけ希望を抱かせてくれた光輝く景色も、今は自分を腑抜けにさせる俗物としか思えなくなっている。
俺はもう一度大きく欠伸をすると、一匹になった世界を見渡し、身体をぶるぶるっと震わせて再び洞穴に潜り込んだ。
それがいけなかった。彼がまさかあんなことを企んでいようとは。
次に会う時までには、体力まで取り戻してやるぞと、俺は本格的に狩りを再開した。
やはり食べられるのを待つだけの獲物を貪ることに罪悪感を覚えていたから、その居心地の良さに牙を抜かれる前に自ら袂を分かつべきなのだ。
以前のように生きる道を与えてくれたTeusには心から感謝せねばなるまい。
あれほど苦労して走っていたのが嘘のように、狩りは容易かった。
あの時の狩りを境に、身体は再び目覚めたかのように、以前と遜色のない動きをして見せた。
恐怖心はたちまち消え去り、俺はかつての誇りを取り戻しつつある。そしてその上を目指そうと走り続けていた。
だがそれが同時に傲慢であると、俺は身をもって知った。
どれだけ誇って見せようと、この狼は森の支配者などではないのだ。
同じ過ちを繰り返してはならないから、俺は自分がどれだけの生命を奪ったのか、絶えず数えながら獲物に牙を突き立てた。後で彼に報告するつもりだ。
時折、俺の眼先まで枝垂れた木々に、いくつもの小さな新緑の蕾が認められて。この森にいよいよ芽吹きの季節が訪れたことを実感する。
大きい目を見開いてまじまじと見つめ、本当に春が来てしまった、などと当たり前の言葉を漏らす。
この時期は日の長さを感じやすくて、ふと夕空を見上げることが多い。紫色に滲ませた夕日が好きだったことを思い出していた。混ざり合う境の色は薄く、山の端へ向かって濃く、暗くなっていく。それを寒さも忘れてじっと見つめてから、洞穴へ潜る。
春は嫌いだった。それなのに、膨らんだ蕾に挨拶をしてやる時や、夜をすぐそこに告げる空へ立ち向かう時に、またあの時のように、風が強く吹いただけで胸が高鳴るのを俺は自覚していた。
その度に戸惑って、これが春だから、それだけではない理由がある気がして、ずっとこんな感情を抱くことは耐えられないなと笑っていた。
俺は呑気に彼が戻るのを待ち続けた。
じっとしていることが少なくなったから、眠る時間は少なくなっていたが、良く遊び、良く食べたからとても良く眠れ、夢も見ないほどだった。
また2週間ぐらいなのだろう、などと悠長に構えていた俺は、彼が1週間後の朝、息も絶え絶えに姿を現したことに驚いた。
「どうしたのだ?そんなに急いで…」
お帰り、というのは何か違うと思った俺は、代わりにそう声を掛ける。
Teusはまともに返事が出来ないらしく、手を膝にやってぜえぜえと肩で息をするだけだ。
「いやぁっ…間に合って…よかった…。」
「何の話だ?」
呼吸が整うまで暫く待つと、彼はようやく身体を起こして、俺に向かって叫んだ。
「Fenrir、誕生日おめでとう!!」
「…!?」
俺は、全身の毛が恐怖で逆立つのを感じた。
「なん…だ、と…?」
本能的に尾を股の間に挟み、思わず一歩後退る。
誕生日、だと?
「あれ、知らなかった?実は今日なんだよ、Fenrirが生まれた日。」
「そ、んな…嫌だ…。」
俺は力なく首を振り、またもう一歩後退る。
目の前が真っ暗になり、何も聞こえなくなる。
あの日のことを、俺は一生忘れない。死ぬほど辛かったのだ。
今度は、何をされるのだ? もう俺は何を失えば良い?
「Fenrir…?」
嫌だ、嫌だあ゛と譫言のように繰り返し、遂にはわんわんと泣きだしてしまった俺に、流石にTeusもただ事ではないと察したようだ。
「どうした、Fenrir…なんで泣いているのさ…?」
”たすけてよぉ…どおして?…ねぇってばあ!?”
一挙に押し寄せる記憶は生々しく、夢よりも遥かに恐ろしくて、俺はぶるぶると震えながら目の前にいる二人に泣き叫んだ。
”…のこと、…嫌いだったの!?”
「…。」
ああ、とTeusは呟くと、彼とは違う景色を見ている俺にゆっくり歩み寄った。
そうか、そうだったのか。そう言って俺の首まわりの毛を優しく撫でる。
「ごめん…知らなかった。また辛いこと思い出させてしまったね…」
大丈夫だよ、何もしないからと声を掛けられたのが聞こえ、俺は力なく膝を折り、がくりとその場に腹這いに座り込んだ。
まだ息は震え、意識が現実に戻って来ない。
「ごめん、本当にごめん…俺はただ、Fenrirのことをお祝いしようと思っただけで…。」
彼は何度も謝った。しっかりと俺の横顔を抱いて、傍にいるぞと落ち着かせてくれる。
「ずっと一匹で、祝ってもらえていなかったと思ったから…。」
…どうしてだ?
どうしてTeusはいつも、こんな俺に優しくあろうとするのだ?
誕生日なんて、俺は知らない
どうして彼が俺のことを喜んでくれているのか、それが分からない。
ようやく口が利けるようになった俺は、おずおずと彼に尋ねた。
「…俺は、今日で幾つになる?」
「…?…今日で生まれてからちょうど17年だ。」
俺は今日という日に二度と巡り合うことが無いように、この日を記憶の奥底へと無理やり押し込んできたのだった。
もう怖くはなかった。
どうしてだと言っても、きっと理由なんてないと彼はまた言うのだろう。
でも、俺はもそれでも良くて、彼に泣きついてはまた、安心させてもらうのだろう。
なんて幸せなのだろうと思った。
「そうか…。済まなかった、急に取り乱してしまって。…その、まさか、祝ってもらえるなんて思いもしなかったのだ…。あの…。」
誕生日、か。
「ありが、とう…。」
春先に俺が生まれたことが、なんとも似つかわしくないだろうなと思った。
「本当にごめんね、驚かせちゃって…。怖がらせるつもりなんてこれっぽっちも無かったんだ。」
「いや、誕生日だと言われて怯えるような奴は、俺ぐらいだろうよ。」
まだ緊張の糸が解けず、どぎまぎしながら応じる。
「これからは、喜んで良いんだからな?」
「そんな年でもないさ。」
照れ臭かった、やめてくれよ。
「そうかい?良いじゃないか、初めてなんだろ?今日はFenrirが生まれて来てくれたことを喜ぶ日だ。」
「だからやめ…。」
「プレゼントがある。」
Teusは俺の目の前に立って嬉しそうに顔を近づけた。
「なんで聞いてくれないんだよ!?俺が何をしにあっちへ戻ったと思っているんだ?」
Teusはにこにこと笑って、脇にどけて後ろの景色を見せてくれた。
「…!!」
思わず耳がぺたりと横に寝てしまった。
それは今まで彼が持ち込んできた巨大箱ではなく、一つの扉だった。
俺でもくぐることが出来そうな木の枠は、どうやら別の世界をつなぐらしい。開かれた先には、俺が見慣れた森の代わりに、どこまでも見渡せる平原が広がっているのが見えた。
それはどこだろう、眩しくて見通せない。あちらも春であることだけがわかった。
…一瞬、そちらの世界に誘われた気がした。行けるだろうか?俺も。
あちらから歩み寄ってきたのは、俺が喰い殺してきた動物たちと同じだとわかった。
道理で今までと様子が違う訳だった、到底箱に込められるような頭数ではない。
俺の姿を気にも留めず歩き続ける動物たちの波に、暫く呆気にとられていた。
信じられない。
まるで平和を取り戻したこの森に、帰るべき場所へとかつての住人たちが戻っていく、そんな奇跡が。
「わあ…。」
子供のような感嘆の声を漏らす。
「これで森の均衡は完全に回復する。それだけの動物たちを産んでもらったんだ。
また様子を見て連れてくるよ、拡散しきるまでにかなりの時間を要するだろうからね。」
彼は以前俺に提言した、途方もなく壮大な計画を本気で実現するつもりでいるのだ。
「これで、Fenrirも生きて行ける。」
その目的も、覚えていてくれたらしい。
「だから暫くは、狩りを控えめにして欲しいんだ。ああ、これが一つ目のプレゼント。それで、その代わりに…。」
まだあるのか?そう思って扉の方を改めてみると、それは既に閉じられており、最後に足を踏み入れた鹿の群れが駆けて行くところだった
代わりに見慣れた箱が鎮座する。
「ここで開きっぱなしにしていると落ち着かないね、後でまた。それで2,3日分ぐらいにはなると思うから、こっちでそれまで我慢して欲しい。」
再び扉を開くと、中は静かだった。こちらは今まで通り動物たちが眠っているらしい。
「食べてみてよ!美味しそうなものを選りすぐって来たんだ。グルメじゃないから、俺にはあんまり違いがよくわかんないんだけど、神様に祝福されたお墨付き、らしい。」
「へぇ、そうなのか。」
それじゃあ、お言葉に甘えていただくとするかな。いそいそと歩いて中を覗き込むと、彼が相当頑張って俺のために尽くしてくれたのだと驚いた。
「おいおい…いくら俺でもこんなにたくさん…!!」
そもそもこの箱もおかしいのだ。異次元へでもつながっているのか。いくら俺でも、1週間喰い続けて腹がぱんぱんに膨らむぞ。
「もう食べられない、ってくらい食べて欲しいんだ!!…今までの分だと思って。Fenrirのことを丸々太らせてやるのが、俺の目標なんだ。」
「あとで取って喰うつもりじゃないだろうな…。」
俺をあまり甘やかさないでくれ、まるで飼いならされた犬ではないか。
「このままでは、本当に幸せ太りしてしまいそうだ…。」
年に一度で十分なわけだと笑い、それじゃあたらふく喰ってやるぞと、どれも美味しそうな御馳走に目移りしながら、まず一頭を口に咥えた。
とにかく俺は浮かれてしまっていた。
こんなに幸せで良いのか、あとで酷く苦しい思いをするのではないかと勘繰るくらいだった。
実際そうだったろう。Teusがいなければ、たまらず首筋の傷を抉りだしたに違いなかった。
もうそんなことはしない。代わりに今日ぐらいはこの幸せを受け入れ、存分に楽しんでやろうと思った。
「それからさあ、Fenrirって、甘いもの好きだったりする?」
「んん?実は俺は甘党なのだ…。」
若くて旨そうな鹿を芝生に下ろし、俺は笑って答えた。
「あまり食べる機会はなかったが、な…。」
顔を上げると、Teusが満面の笑みを俺に向けていた。
「じゃあ、良かった。」
驚いた。今までで一番だ。
「これもプレゼント。」
隣には、Teusと同じぐらいの高さに積み上げられた巨大なケーキが用意してあったのだ。
「すげぇ…。」
本でしか目にしたことが無かった。その想像よりも、遥かに大きい。
「ちゃんと犬用の、糖分とか脂肪分とか考えてあるやつだよ!食材も君の毒にならないよう気を付けて使ってるから、安心して食べて!」
何と下手なことだ。天辺のプレートにはお決まりの文句が書かれていた。
如何にも誕生日らしいではないか。
「ありがとう…。」
それでも、初めてなのだ。
まずいなあ、俺はまた泣いてしまうのではないだろうか?
どんな味がするのだろうな。
「Fenrir、火を点けるの手伝って!」
蝋燭に未だ火はなかった、数えずとも17本あるのだろう。
そっと火を吹きかけ、高いところは俺が灯してやる。
「これで良し…じゃあFenrir火消して!あ、その前に歌の一つでも歌ってやるか?」
「流石にそれは良い…。」
彼のはしゃぎっぷりに、思わず苦笑する。
俺よりの喜んでいやがる。自分以外を祝うのに、こんなに嬉しそうにしていられるものだろうか。
やっぱりTeusは優しいのだなと思った。
いつか、こいつのことも、祝ってやろう。
「よし、一回で消し去ってやる。」
「おお、良いね!!」
胸いっぱいに空気を吸い込み、宣言通りすべての蝋燭の火を消してやると、彼は嬉しそうに喝采と拍手を送った。




