102. 霜の血
102. Jotun’s Relative
「Teusよ…。」
一つだけ、聞かせて欲しいことがあるのだ。
「なあに?Fenrir。」
どこか眠たそうな声をしたTeusは、それはもう素晴らしい追憶に浸っていたのだと分かった。
その場面の中に、俺はどれくらい映り込んでしまっているのだろう。
「一度、降りてはくれぬか?身震いがしたいのだ。」
数千年、いや、殆ど永遠に近い時空を生きた天空神は、一体どれほど起伏に富んだ物語を歩んできたことだろうか。
鑑みれば、得てして、薄めて美化したい思い出ばかりが濾過され色濃いに違いない。
俺には確信に近い、同情にもならない直感がある。
こいつは、自分よりも不幸だ。
そういう風に、生かされてきた。
なんて失礼極まりないことを抜かすのだろうな、神に向かって。
主体的生を、疑うなどとは。
そんな彼の中に濁る、手元に抱えて微笑んでいたい一抹の幸せに、俺は不運にも居合わせたのだ。
別に俺がこうして生き永らえていなくたって、こんなにも勇敢で利他的な男が、最愛の妻と結ばれぬはずがない。
利口で慈愛に満ちた狼にも、遅かれ早かれ出会う巡り合わせだった。
そう。こうなることは、必然であったのだ。
嬉しそうに見つめ合う二人と、その間で尾を振りお座りをするSkaは、いずれ皆の目に触れる日常であった。
俺は、偶然にも、その場を通り過ぎただけ。
そんな一場面の、ほんの一瞬を共に生かされたに過ぎない。
それなのに、俺はTeusの記憶の舞台の中で、確かにこの姿を演じたと実感したがったのだ。
ああ、いたね。
そんな名前の狼も。
それぐらいで良い。
これからの栄華のふとある時に、思い出せるぐらいの。
危うく、忘れてしまいそうになる程度の。
色の褪せた芝生の上に降り立つと、Teusは物珍し気に空を仰ぎ、それから喉元に手をやった。
そんな仕草が、逐一俺を惑わせる。
「Teus。」
お前は様々な世界を、見てきたのだと思う。
アースガルズに、ミッドガルド、それからヴァナヘイム。
地続きであるかどうかはこの際、問題では無いな。
そして想像もつかぬような悲劇に、心を砕かれつつも。
俺にそっと教えてくれたような景色に、密かな憧れを抱いて来た。
このようなものは、果たしてあっただろうか。
それが聞きたい。
「お前の目の前に広がる、この世界は…」
「美しいか?」
真っすぐにTeusの瞳を覗き込み、俺は息を止めて答えを聞き漏らすまいとする。
その手があったなら、不安を紛らわしたくて、首元に伸ばして掴んでいたことだろう。
「…。」
「うん、きれいだよ。」
「この景色に、君は映える。」
「気高く、美しき狼よ。」
「あはは…Fenrirの口調真似したけど、あんまりカッコ良くない?」
「……。」
涙が零れたでもないのに、俺は耐えがたく。
目をぎゅっと瞑り、恐る恐る見開く。
「Teus……。」
彼の顔から、笑顔が消えることは無かった。
なんてことだ。
こいつの思い出の中に、
いらぬ狼が一匹、混ざり込んでしまったのだ。
産まれてはならぬ、怪物の血が。
「もう一つ、もう一つだけだ。」
「…これっきりにしようぞ。」
「だから、聞かせてくれ。」
「ふぅー……。」
震える息を吐き出し、毛皮を震わせ、纏わりつく腐臭を払う。
「伏せろっ!!!!」
弾けるような怒号と合図に、Teusが膝を崩してしゃがみこんだ。
お陰で、彼の背後に潜んでいた視界が姿を現す。
「……!!」
目の前に飛び込んできたのは、得体の知れぬ赤い痰だった。
それが同じ毒源から湧き出ているであろうことは一目で分かった。
Teusの視点からはどのように見えているのか、興味があるところだが、少なくとも喰らってはならぬ代物だろう。
目の前の彼に飛散することも、避けなくてはならない。
どうする?
決して反応できぬ距離では無かったが、それ故俺には逡巡する余地があった。
この巨体を以てしても、容易かったのだ。
こいつが矢の如く素早く全方位から迫ってきたとしても、俺を射抜くことなど決して出来まい。
毛皮の先を、掠りもしないのだ。
だが、この先の展開の契機として。
俺はとある天啓に耳を傾けたのだ。
この悪魔の血に、俺が安易に触れるようなことがあったなら。
その失態は、俺自身にどういった変化を産むだろうか?
言ってしまえば、こうだ。
俺は、Teusと同じ景色を拝むことが出来るのか、と。
「ふんっ……!!」
ガッキンッ…
金属どうしがぶつかりあうような、重たい音が響き渡る。
「なるほどな…」
拒絶された、とでも言うべきか。
頑丈な怪物の爪によって弾かれたそれは、個体であったのだ。
砕け散ることもせず、飛んできた槍状の形を保って地面にめりこんでいる。
「フェ…Fenrir…?」
目の前に突き立てられた血の鏃を見てぎょっとしたTeusは、尻餅をついて俺を見上げる。
「ふむ、傷ついてはおらぬな。大事な爪が欠けては事だ。」
「こ、これって…?」
「随分と近くまで、迫ってきていたようだ。…まあ、俺から近づいてやったことを誤解しては困るがな。」
「え…えっと、どこ…え…?」
「後ろの茂みだ。よくそんなので生き抜いて来れたな。」
「うるさいなあ、どうせ弾なんか当たらないもん。」
「運が良いから絶対に外す、か…羨ましい限りだな。」
俺が警告を発さなければ、脳天を貫かれていただろうに。それさえも予定されていたとなっては、甲斐が無い。
姿を隠す必要がないと悟ったそいつらは、ぎこちない所作で、俺達の前に姿を現した。
そう言えば、あの時もそうであった。
息一つ、聞こえてこない。
「Teus…お前には、彼らが何に見える?」
「何に…見える、か?」
ようやく臨戦態勢に入らなければならぬことを悟ったTeusは、立ち上がって俺の傍らに並んだ。
「…わからないよ、Fenrir。どういう意味?」
「済まないな、こんなことを聞いてしまって。」
だが重要なことなのだ。
これは、お前を蝕んでいる毒牙に関わることかも知れぬ。
「お前に見えているものは、到底 ‘人間’ と呼べるものではないな…?」
「……」
「Teus…!」
「う、うん……」
「こいつらは、こんな世界にいて良い生き物じゃない。」
「人ならざる者、であると…。」
「Fenrir…?」
怯えた瞳で此方を見つめ、頬の毛皮を握りしめる。
「な、なんで…そんなこと…?」
「いや、ならば良い。…良いのだ。」
その言葉で、迷いは消えた。
お前の世界にいらぬ者など、消してくれる。
「……後は、任せろ。」
不羈であって良いか。
これは、お前を巡る戦いなのだ。