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101. 欠色 2

101. Devoid 2


赤い靄の中へ完全に顔を埋めると、俺はゆっくり鼻を開いて穢れた空気を吸い込んだ。

「うぅ……」

怪しげな色味をしたゼリーが放つ臭いにおびき寄せられ、気付けば全身を取り込まれていく。

食虫植物に取り込まれた虫けらとは、こんな気分だろうか。



狼は腐臭を、そこまで嫌だと思わない。

狩り殺した獲物があまり日持ちしないことは、季節によっては往々にしてあることだからだ。

その場で全部平らげてしまわないことは生きていく上では重要なことで、消化をのんびりと待ち、より多くを腹に溜め込んでおくことに繋がる。

その間に多少肉の味がわるくなったからと言って、蛆でも湧かぬ限りは捨て置くことはない。頑丈な腹の足しにと気にせず口に運んでは、次なる狩りへの糧とするのだ。


まあ、俺は残さず喰い尽くす主義だ。一口大の獲物にしか出会えたことが無い上に、育ちと行儀が良いからな。

だが過去に飢餓に苦しんだ経験があるため、代わりとして洞穴には常に数頭の蓄えを用意してある。

冷暗所だから一週間程度は持つのだ。美味しい内におやつとして口に運び、また余剰に狩っては彼の霊前に備えている。

今頃あの洞穴はどうなっているだろうか。


要は敏感な嗅覚がそれを嗅ぎ取っても、生得的に警鐘を鳴らさない。そう言うのが正しいだろうか。


それでいて尚、身悶えする酷さだ。

幾千もの屍体を鼻の奥に突っ込まれたような、濃い臭気が絡みつく。

これは凄まじい。本能的に思わず耳を引いて怯む。

暫くは吐き気を堪えて息をしなくては、とても舌を垂らしてなどいられない。



問題は、Teusの方だ。


俺の指示に柔軟に従い、今も背中の上でじっと息止めてくれている彼は、この腐臭に耐えきれるだろうか。

人間の嗅覚というものが分からぬ。

今さら後悔しても遅いことだが、もっと彼と、狼との相違について話し合い、感覚の共有に励んでおくのだった。


もしもTeusに、口呼吸という芸当が出来たとして、この茸の体内は、どれだけ俺達の呼吸器官に害を及ぼすだろうか。


間違いなく言えるのは、あの子嚢の爆発をまともに喰らっていたら、俺達自身が腐り果てていたであろうこと。


太陽の陰に思えた幾つもの球体は、月であった。

世界は血に染まり、春の終わりの色合いを奪われつつある。


陽の光を吸っては輝かしい葉を纏い、俺の日陰となってくれた木々は、枯れ果ててしまった。

花は蕾から腐り落ち、足元では泥のように傷んだ草木がぬかるむ。

あれは、もうすぐSiriusに振舞ってやるつもりで楽しみにしていた、野苺の茂みだったか。

「あ、ああ……」

変わり果てた縄張りの自然に、悲哀の溜め息が漏れる。


目に飛び込むものを逐一理解しようとするだけで、俺は簡単に心を追い詰められた。

この空気を招き入れるだけで、喉が剥がれて疼き、毛皮の先が傷むような気がしてしまう。

力が、入らない。思わず尻を付いて、その場に座り込みそうになった。


目の端が潤んで、痛い。


もしや、視界が赤く染まっているのは、俺の眼が充血しているからなのでは?

この涙の色さえも、濁りを含んでいたら。


俺は、この景色を晒されて数分と持たない。



「……!!…!」

な、なんだ…?


ああ…Teusか。

背中で息を潜めていた彼が、俺の毛皮を強めにバシバシと叩いたのだ。

恐らくもう我慢できないということなのだろう。


立ち入って数歩という所だ、すぐに引き返してやろう。

新鮮で安全な空気を、吸わせてやらなくては。



……。

いや、もしや。



もしかすると。



「Teus……。」




「大丈夫だ。」




「息を、吸って良いぞ。…ゆっくりとだ。」




「―――……。」




頭上で、震えた吸気がする。



「Fenrir…大丈夫?」


「ああ。お前の方は、どうだ?」

「うん、何ともない。」

「変な臭いは、しないか?胸や喉に、違和感は?」

「全然…しないよ。今のところは、だけど。」


……。


「どうしたの?」

「いや…俺と同じ意見で良かった。さあ、先へ進むぞ。」

「うん…」


「でも、やっぱり変だよここ。…気を付けてね。Fenrir。」

「ああ、その通りだな。まだ見ぬ脅威へ、十分に注意を払うとしよう。」

この世界を異様だと捉えてくれているだけでも安心した。

俺がこの森に対して味わっている、自分の毛皮を剥ぎ取られているような苦しみが、幻想なのではないかという疑念さえ湧いてくる始末だったから。


…それで俺は、こんな弱気な提案を持ち掛けてしまう。

「お前もできるだけ、無事であることを示すようにしてくれ。」

「どういう事…?」


「…不安なのだ。お前の言葉を、耳にしていたい。」

「どうしたのさ?急に。」


恐れが滲む語尾の僅かな震えさえも、手遅れの兆候である気がしていけないのだ。

そう言うと、お前は笑うか。


いいや、諫めてくれ。

これから俺は、お前の命を運ぶ確固たる意志を保ち続けなくてはならないのだから。



「何でも良いのだ。警戒を強め、少し歩幅を緩めて走る。その間…俺に話しかけ続けて欲しい。」

「分かったよ。お互い何か、異常があったらすぐ知らせるためだね。」

「その通りだ。」


それでいて、普段通りの散歩と行こうでは無いか。

どうか、身体の内を走り回る怪物に怯えないでくれ。

俺は知っている。病床の獣を死の淵から救い出したのは、その活気に満ちた声であることを。

この世界に一匹であると、感じずに済む。それは何にも代えがたい実感だ。




「ねえFenrir。」

「ああ。何だ、Teus。」

良い調子だ。お前はこの期に及んで、どんな話をしてくれる?




お前は優しいからなあ、きっと。

そう期待した俺は、我が耳を疑い、絶句する。







「……なんだかね。」







「狼に、なった気分なんだ。」


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