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101. 欠色

101. Devoid


どうにかして、理性を保っていられた。


我を忘れて敵陣に飛び込むことをしないたった一つの理由が、この友人であるとするならば。

狼であるとは、最も人間からかけ離れていても今は喜ぶべきだ。


少しの遠慮もなく怒りに声を荒げ、暴言をぶちまけたせいで、乗り手は震える手で毛皮を握りしめたまま大人しかった。

すべては俺が望んでやったことで、委縮しきった彼は何一つ非難されることが無い。

しかしどんな些細な異変も見逃すことが許されない今、俺は頻りに背中にめがけて明るい声を放った。


「少し飛ばし過ぎているようだな。ついてこれそうか、Teus?」

「うん…心配、しないで!先を急ごう!」

耳元をびゅうびゅうと吹き抜ける風で、聞き取りづらいのだろう。いかにも掴まっているのがやっと、と言った様子だ。

しかし、その声が聞こえただけで安心した。

ふと気が付けば、力尽きたお前を取り落としてしまいそうで、気が気でないのだ。

自分から口を開くのが難しいのなら、今日ぐらいはこちらから話しかけてやらなければな。


昏睡状態に陥り、ぴくりとも反応を示さないこいつを背中に乗せて。

ただ一匹で連れ帰った狼の後ろ姿が、脳裏で揺れる。


あいつの仲間への忠誠心は、心から尊敬する。

どうしてそれが、裏切られようか。


Teusの揺らぐ灯に気を揉んでいる場合ではない。


「もう間もなくだ、頑張ってくれ。」

「Fenrirも、無理しないで!」

「ああ、すぐに終わらせる。」


何処のどんな怪物かは知らないが、お帰り頂くとしよう。

此処は、俺の…Siriusの、縄張りだ。






程なくして、俺たちは膨らんだ赤い煙の足元まで辿り着く。

酷く空気にこびりつき、滲まぬようだ。なかなか拡散して晴れない。

見上げれば、それは洞穴の前に聳え立っていた茸の傘のように広がり、天を覆いつくしている。


「……ひどいな。」


だとすると目の前の靄は、悍ましい植物の根本であることに俺は気が付いた。


この魔性の茸は、そうやって成長を続けているのだ。


色濃い霧の中でもくっきりと姿が見て取れる丸い物体。

薄れた雲間から覗くようにしてこちらを見ている球体、あれは太陽ではない。

この世界に、それは一つだけであったはず。


大小さまざまに浮かんでいるのは、子嚢だったのだ。

一斉に弾け飛び、この森を一瞬で飲み込むと、また更に怪物的成長を遂げ、その実を膨らませる。


熟したならば、今度は世界のどれだけを包み込むのだろうか。

それさえも、一代の繁殖として造作もないと言うのなら、凄まじい繫殖力だ。



この毒々しい茸を根絶やしにする手段はあるのか、それさえもわからないが、もうこの霧の壁の向こうは、俺が一生の大半を過ごした縄張りでは無いのだろう。


「立ち入らざるを得ない、か…。」

そう呟きつつも、躊躇している自分がいる。

本能的に、この瘴気を吸い込むことが危険であることは感じていた。

下手をすれば、ものの数秒で意識を失うような致死性のガスであるのかも。


しかしそれ以上に、蹂躙された景色を目の当たりにして、狼狽えるのがひたすらに怖い。

怒りに我を忘れて、Teusのことさえ気遣えぬまま、術中に嵌ってしまったら。

俺は何のためにこの森を超え、彼らのもとへと向かうのだ


忘れるな、目的は一つだけ。


ヴァン川を越えることなく、Teusを対岸へと送り届けること。

それだけだ。


私情を挟むのはけっこうだが、そのためにこいつを失うようなことがあってはならぬのだ。

元凶を絶つことを道中の寄り道として、許されるだろうか?


「Teusよ…」

「どうしたの、Fenrir。急に立ち止まっちゃって…」


定期的にお前の声を聞き、反応を窺いたいぞ。


「この先に、進もうと思う。」

「えっ?これ、大丈夫なの…?」

「……。」

至極当然の反応だ。

水と油のように、この世界の空気と親和しないまま、形を不気味に保っている。

この霧は明らかに、普通じゃない。


普通に考えれば、そうやって話が進む。

しかし俺は、彼に見えているものが、自分と同一ではないのではという疑念を、殆ど確信に近いところまで至らせていた。


Teus、お前の眼前には、どのような景色が広がっている?


俺は彼にその違和感を悟らせぬよう、できるだけ話が嚙み合うように続けた。


「無論、お前だけを此処に降ろして、斥候を務めるのが筋であろうが…」


お前を狙い済ました追手の存在を考えると、視界の悪い場所で距離を置くのは余りにも危険だ。

常に一緒に行動したほうが良い。どちらかが感じた異常を、直ちに報告しあえる状態に身を置くべきだと思う。


「迂回は、できない?」

「ヴァナヘイムへと向かうのであれば、できなくはない。しかし…目的地は、この中だ。」

「そ、そうか…原因を、突き止めなきゃね…。」


今の一言で、彼の目の前にも腐敗が聳え立っていることが確信に変わった。

だとすると、何故Teusは、ドーム状に広がった赤い雲を見落とすようなことをしたのだろうか。

どうにも腑に落ちない。


「それだけではない。俺が思うに、お前を救い出せる鍵も、この霧の中に取り込まれている。」

「どういう、意味…?」



「……。」

今ここで、打ち明けても良いだろうか。


「直にわかる。それに、本当にお前の役に立つかどうかも…確かではないのだ。」

逡巡の後、俺はそれを最後の手段として秘めておくことに決めた。

使わずに済むのなら、それが最善に決まっているからだ。

ばれたら、きっと彼に怒られる。


「教えてよ、俺だってFenrirに…!」

「息を止めろっ!Teus!」



食い下がるTeusを無理やり制し、俺はずいずいと霧の壁に向かって進んでいく。

「うわっ…待って!ほんとに行くの?」

「俺が良いと言うまで、絶対に吸い込むな。」




「明らかにやばいよ…真っ白だ。」

「分っているさ。」



「まるで…吹雪みたいだ……。」

「…そうか。」





もう後戻りできないのだとしても。



…時間は余り、残されていないように思える。


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