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100. 崩れ行く聖域

100. Crumbling Sanctuary


狼の直感は、彼に差し迫った危機を感じない。

それは嘘偽りの無いことで、決してTeusを安心させるための方便では無かった。

今のところは、俺の背中の毛皮にしがみ付いてくれるだけの力を残してくれている。

それだけで、ひとまず喜ぶべきだ。


「問題は、どのようにして近づくか、だが……」

「どれくらい走ったの?洞穴からは、けっこう離れているのかな、ここ…」

「うむ。ひとまず西部の高原まで逃げ果せた所だ。ヴァン川からは、更に離れていることになるな。」


覚えていないのも無理はないが、実は白銀の季節に、此処でお前とオーロラを見上げていたのだぞ。

元居た根倉の方面へと逃げ出さなかったのは、まだあの赤い濃霧が晴れ切っておらず、正体がつかみ切れていないのを考慮してのことだ。


「そうだったの!?全然わからなかった…。確かに、こんな風に見晴らしがよかったね。」

「ああ。夜空を見上げれば、思い出すだろうよ。」


追憶の寄り道をしている暇は、無いのだがな。

そう言い捨て駆け出すと、彼が目覚めるまでは、幸せな冬の記憶に浸っていた自分のことを笑った。


もしかすると、天の通り道に、彼が見えるやも知れぬ。そんな期待が、これまでにないほど湧き上がっていたのだ。





Teusは頻りに、俺たちを黒く染め上げるであろう毒牙のことを気にしていた。

「ねえ…走っていても、全然何ともないの?」

「ああ、お前と同じようにな。」

お前はどうなのだ。僅かな異変であっても、自覚があるのなら、是非とも教えて欲しい。

痛むところはないか?見えてはならぬ影に、囁かれなどしていないか?

俺の名を、しかとまだ覚えているか。

それだけが、心配でならない。


「うん、大丈夫だよ。ありがとうFenrir。」

「それならば、十全だ。ありがとう、Teusよ。」




こうなった以上、お前には申し訳ないが、運命共同体だと思っている。


俺自身、確かに粘膜を通してお前が鱈腹腹に抱えたものを少なからず摂取しているのだ。

仮にそいつが身体を内側から蝕むよう猛毒で、見た目には分からぬが既に手遅れであったとしても。

身体の大きさが、毒の回る速度に関係してくることはあるだろうが、その時はお互いに同じ道を辿るだろうさ。


これは予想に反しているのだが、ヨルムンガルドが孕む猛毒は、俺たちの思うそれと性質を異にしている気がする。

「あの小川も、沢山の魚たちが犇めいていたはずだからだ。」

春先は、俺の腹の足しにもならぬような渓魚で溢れかえっていたのが水面の上からでも見て取れた。

一瞬潜った際にも、あやつらはぴんぴんしていたと記憶している。


主流に罠を張ることは、造作もなかった筈なのだ。

これは海辺での布告と、どうにも合致しない。


それが妙に引っかかる。

俺たちへの威嚇は、果たして彼によるもので間違いないのだろうか?

或いは…。



いずれにせよ、俺たちが為すべきことは依然として変わらない。

どのようにして怪物の追っ手を退け、仲間たちと再会を果たすか。



「…俺は現状に対して、自分でも信じられぬほど希望的観測を持てている。」


Skaたちはずば抜けて利口な狼であることに、お前は異論を挟まぬであろう。

もし既にヴァン川を流れる水が汚染されていたとしても、彼らは決してその流れに口を浸さない。

一匹一匹がその危険を嗅ぎ取り、群れのリーダーがそうと伝えたなら、間違いなく犠牲者は出ないはずだ。

俺たちは、彼らを救おうと己惚れて先を急ぐ必要がない。

これはとても有難いことだ。お前を護りながらこの森を突破することだけを考えればよい。


無論、あの大蛇がヴァン川を最後の砦として守り構えているのだとすれば、それは無血で開城させねばならない。犠牲者は、一人一匹とて出すわけには行かぬ。これは容易ではないだろう。

「それで、どうやって世界を取り巻く蛇を欺くか、だが…」


当てがある。

一先ず、話を聞いてもらいたい。

ついてきてくれるか。


「もちろんだよ…!もしかして、おいてくつもりだった?」

「ああ。これからの行動は、俺自身にとっても余りにも無謀であるからな。」



問題は、あの忌まわしい茸が放った赤い胞子。



ぎりぎり吸い込まずに済んだが、あれの方こそ肺に入れた時点でまずいとは思わないか。

ヨルムンガルドの飲み水よりも、そちらの方が遥かに心配だ。



「…これは、明らかにヨルムンガルドによって齎された災厄ではない。」


それはもう一つの脅威、別次元からの刺客だ。


「俺が思うに、こちらをすべての元凶と捉えるべきだ。」



あの大蛇は所詮、この世界の住人の域を出ない。

一方で毒々しい植物がこの世界のものでないとするならば、それは何処から、何のためにやって来た?


何処か、両者に統制が取れていない感じがする。

Lokiによって差し向けられた脅威であると言うのなら、それらは依然として、俺やTeusの命を狙うことだろう。喩え知能が結託することを選ばなかったのだとしても、異次元の来訪者が俺たちに対してかける追い打ちとして、あれは余りにも凡庸だ。


俺を罠に嵌めたいのなら、抗いがたい囮を使うぐらい、しなければな。


何が言いたいかと言うと、ヨルムンガルドと赤霧の主、同時に現れた二匹の怪物は、それぞれ別個の目的があって俺たちの前に姿を現したのだと考えているのだ。


それで、前者はどうにか対処できそうだと俺は思う。

あいつほどでは無いにしても、ある程度の深さであれば水脈の凡その位置を耳によって把握している。

噛みつく地雷も位置さえ分ればそこまで恐ろしくはない。


お前と違って、縄張りの礼儀も、弁えていると見た。

己の領分を超えて襲うことも、恐らくしない。


「ちょっと、それどういう意味…!?」

「ふふっ…冗談だ。」



とにかく、あとは後者に対処することを今は考えたい。

言ってしまえば、その根本を絶ってしまいたいのだ。



「Teus、お前が隣にいるから、どうにか平静を保っていられる。」

「……Fenrir?」



「……だがなあ。俺は今すぐにでも、お前が嫌がるような鼻面に牙を剥いて唸り、吠え猛りたい気持ちでいっぱいなのだ。」




「すまない。」




取り乱さぬよう細心の注意を払いながら、茸のような形の赤雲が聳え立つ、東部の森を眺める。


「よくも…よくもやってくれた…!」



俺の縄張りを。

あの方の森を、洞穴を。

よくも白昼堂々と汚してくれたな。



言葉になどするのでは無かった。

沸々と湧き上がる怒りが、俺の表情を望まれたように歪ませる。


「ウ……ウゥ……」


“グルルルルゥゥゥゥ……”


「……フ、フェンリ…ル…」



“グルルルルァァァァアアアアアアアアアッッ!!!!!!!”



「っ……」




そう、俺は罠に嵌められたのだ。

これ以上ない挑発に、乗せられた。



“許さんぞぉっっっ!!!!!俺がっ……俺が必ずっ……お前をっ……!!!!!”



“狩り殺してやるっっっ!!!!!!!!!”



“アゥウウウオオオオォォォォォォォォォーーーーーーーーーーーー……”





目の前の景色は、敗北の都だ。


護れなかった俺は、その王に相応しくなどない。





しかし、それではあの大狼に合わせる顔が無いのだ。


Sirius。あいつは今も、洞穴で眠っている。



俺は、彼だけは、守らなくてはならない。




「お前は必ずヴァン川の対岸へ届ける。」



「しかし……俺に少しだけ、私情を挟ませてくれっ!!」



「耐え難い!……耐え難く苦しいのだっ!!」





「Teusっ!!」


「っ…わ、わかった……!」



慌てて背中へとよじ登るそいつの眼は委縮しきっており、彼が最早この戦いの傍観者でしかないことをありありと物語っていた。







「……止めては、くれぬのか。」



「運命共同体だって、言ったじゃないか。」



「……あの異様な雲が、お前には見えないのか?」



「Fenrirは眼が良いよね。近くまで来たら、教えてよ。今度はちゃんと、息を止めてるから。」



「……。」





「すまない。」





「ごめんな。Teus。」




自殺行為に付き合わせたことを、今は心の底から後悔している。




こいつは、もう感染済みだったのだ。







俺にしか、目の前に淀んだあの赤い腐敗は見えていない。


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