99. ヒドネルム・ペッキー 3
99. Devil Tooth Mushroom 3
Fenrirは、俺を溺死させるつもりだったのではないか。
そんな疑念がふと脳裏で漂う始末だった。
たった一度でも息継ぎをさせてくれたらよいのに。彼は俺が浮上しようとしても大きな前足で胸をぐいと押さえつけ、頑として頭を水上へ出すことを許さなかったからだ。
初めの数秒ほどはその前足を掴んで激しく抵抗してもみたが、肺へと流れ込む水に藻掻く気力も奪われ、やがて水中をゆらゆらと漂う意識だけが取り残されていく。
“……。”
胎児が透視の力を宿していたなら、きっとこのようだろうという気がした。
暖かな水で満たされた子宮に浮かぶ俺は、息をすることもしない、未だ産まれずの命。
ぼやけた視界の中、Fenrirが心配そうに俺の顔を覗き込むのが見える。
彼は俺を沈めたままにすると、尻尾を尾びれのようにくねらせ、水面へと浮上していく。
それからやがて俺のもとへと戻ると、身体を優しく口に咥えて水底を蹴り上げた。
四肢に力の入らない俺は、ようやく救い出されるという実感さえもなかった。
水面に顔を出した俺は、ぐったりとしつつも赤子のように激しく噎び泣き、息を落ち着けるまでFenrirの介抱を受けることになるだろう。
ひとまず彼に腹を肉球で押さえつけて貰って、喉に詰まった水を残らず吐き出そう。
それから、大丈夫かTeusと舌で優しく頬を舐めてくれるまで、川辺で死んだふりをしていたい。
そうしている内に、こんな悪夢も醒めるだろう。
気付けば隣では、FreyaもSkaも笑っていてくれるはずだ。
“……ふぇ…ん…り…る…”
だが俺は、狂うことを許されなかった。
頭に酸素が回っていないんだ。こんな呑気な戯言も、一つぐらい許してくれて良いのに。
悠長な希望は、容易く裏切られてしまう。
未だに現実を受け入れず、今この瞬間に戦う姿勢を取ることをしない俺は、Fenrirにとってどれだけ足手まといであることだろうか。
水中を優雅に泳ぐもう一匹の獣は、すぐそこまで迫っていた。
“…どうやら、御出ましのようだぞ。”
Fenrirの身体裁きは、加速度的にスピードを増してゆく。
俺がその気配を押し寄せる濁流として感じ取る頃には、もう彼らの間で挨拶は済まされていたようだ。
“キィィィィイイイイーーーーーーーーーーーーーーー!!!!”
耳を劈く高音が、どうやらそいつの雄叫びらしい。
両手で塞ぐ事ができない。鼓膜を力一杯鳴らされ、一発で朦朧とした意識が覚醒する。
“…!?”
引き上げられる刹那に飛び込んできた残像は、彼にそっくりだと思った。
と言っても、大口を開いて河川もろとも飲み込もうとする様子が、一瞬前のFenrirと重なったからに過ぎない。
そいつはFenrirのような、動物的な姿を伴わなかった。
足が、付いていなかったのだ。
白い肌をした、海蛇だ。
爬虫類に似つかわしくない、のっぺりとした鱗を身に纏っている。
間近でそこまで観察してしまえるだなんて。
間一髪も良いところだ。
ドゴゴゴゴゴゴ……!!!
ザパァッ……
バシャ…
「ィウ……。」
「…おい…ティ……。」
「Teus……か?」
ようやく息を吸える世界に戻れた、そんな実感もない。
視界を激しく揺さぶられ、気が付くと俺は、力なく四肢を垂らしてFenrirの口元にぶら下がっていた。
これでは本当に、狼に狩られた獲物のようだ。
まあ、蛇に丸呑みにされるよりは百倍ましか。
「ぞんざいに扱ってしまって済まなかった。大丈夫か、Teus……?」
「う、うあ……あ…。」
咳き込もうとしたが、気道を押さえつけられてうまくできない。
「少し待て、今腹に溜まったものを吐かせてやるからな。」
彼は頭を下げると、優しく俺を地面へ降ろして寝かせる。
「げほぉっ…ぐっ…げぇぇっ…あ゛っ…ごぼっ……。」
「あぁっ…あ、ああ……ああ……。」
「ああ…ありがとう…。」
ここ最近で、一番ひどい経験をさせられたかも知れない。
水面から引き離されるという恐怖は、俺により強固なトラウマを植え付けた。
間違っても、自分を転送なんかできそうにない。
「あ、あいつは…?」
俺が口を聞けるようになるまで、Fenrirは林の奥をじっと見つめつつも、耳をくいくいと動かして、周囲の警戒に務めていた。
少なくとも、それだけで多少の猶予が与えられていると安心できる。
今すぐ逃げるぞ、そう急き立てられないだけでも俺は有難かった。
顔の水を拭い、それから重たくなった外套の裾を払い立ち上がる。
「…ふむ、やはりそうか。」
「どうしたの?」
何か合点がいった様子だが、俺は未だに彼らの戦いと同じ土俵に立てていない。
「あの海蛇、あらゆる水脈を支配しているな。」
「それって、地下を流れている水路ってこと…?」
「そうだ。あれのために、張り巡らされている。」
殆どあれは大地が持つ毛細血管と言ってよい。奴の全長など測り知れないが、まるで神経としてそれを共有している。
「じゃあ、どこからでも俺たちを襲ってくるって言うの…?」
「血管にも太さがある。破裂させてまで通ろうとすれば、地盤にまで影響が及ぶだろうさ。」
「恐らく、あいつはそれを嫌がっている。」
「……え?」
「きっと痛いんだろう。分らんでもない。」
俺だって、この森を汚されることは、毛皮を毟り取られるように耐え難い。
「わからないよ、Fenrir…どういう意味…?」
「少なくとも、俺はそう確信しつつあるのだ。」
此処ら一帯は、僅かな水流しか足元を流れていない。追撃の手を緩めたということは、つまりそういうことだろう。
彼とて、大事な水脈が潰され、塞がれることは不本意であるに違いない。
それなのに、あいつは何故?
「フェ…Fenrir…?」
「これは、別個の問題であると考えるべきか。俺ならそう考えさせようとする。」
「……。」
彼がその怪物の生態を鋭く分析し、またそれに理解を示したことが、俺を酷く動揺させる。
俺の中でもまた、ある確信が形を成そうとしているのだ。
これは、共鳴であると。
「ヨルムンガルド…。」
「…それが、あいつの名か。」
「……。」
「Teus……。」
「……ごめん。」
俺は、本当にずる賢い。
謝りさえすれば、彼はそれ以上の穿鑿をしてこないことを知っていた。
「……まあ良い。」
「それどころでは、無いからな。」
Fenrirはずっと、俺が何かをひた隠していることを、知っていたのに。
「実際、俺たちにはそのことについて議論する猶予はないのだ。」
もし仮にヨルムンガルドが、俺の思い浮かべる通りに振舞っていたのだとしても、それは現状を大して良いものにしない。
結局、ヴァン川は恰好の通行路であることに変わりはないのだ。
俺たちがVesuvaへと赴くことが、どれだけ危険な行為であるかを理解せよ。
「それに……あの水は、もう飲まないほうが良い。」
「… ?」
Fenrirは、口を噤んで目を逸らす。
「な、なんでだよ…」
「今は、何ともないのか?…ならば良い。」
「良いわけない、だろ…。」
どうしてそんな、不穏な言葉を漏らすんだ?
「教えてよ!あの水、何か変な味でもしたって言うのか?」
「いいや、俺には分からなかった。」
「じゃあなんで…!」
はっと口を噤み、俺は喉元に手を伸ばす。
「……。」
あの光景が、脳裏で弾け飛んだからだ。
座礁した、夥しい数の黒い死体。
それが、なぜ海岸線にぽつぽつと並んだのか。
「そ、んな……。」
「お前はすぐにでも、Freyaの元へ向かわねばならない。」
解毒の術は、よく知らぬ。
だが彼女なら、女神様ならば…きっと何とかしてくれる筈だ。
「背中に乗ってくれ。お前を口元に保っておくのは、もう耐えられぬ。」
この世界は、お前に牙を剥いていると知れ。
「……帰路は、思っていたよりも多難のようだ。」