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99. ヒドネルム・ペッキー 2

99. Devil Tooth Mushroom 2


俺が指さした真っ赤な液胞が次々に弾け飛んだとき、隣にいた大狼は普段滅多に見せないような反応を即座に示した。


どう伝えたものだろうか、Fenrirの立ち振る舞いはいつも動物的ではなかった。

厳格な老人が蓄えた髭を撫でるようだ、といつも思っている。恐ろしく落ち着き払った一挙手一投足は、常に誰かに向けて狼の姿を披露することを意識しているのだ。

舞台に立つ彼は、観客に向けてそうすることを求められていたに違いない。

それゆえ、動物的でない対極は、人間的でもない。だからさっきの比喩は、俺の主神に対する卑しい印象か何かだ。


砕いた言い方をすれば、Skaは対照的に身体を力いっぱい使って感情を伝えてくれたのだ。

だから俺には、彼の伝えようとする言葉が少しは理解できたのだ。

今となっては、もう語り掛けてくることも無いのだろうけれど。


そうした表現は、枚挙に暇がない。

尻尾を振ることぐらいなら、Fenrirだって偶にしてくれたりもした。瞳を閉じて額をこれでもかと擦り付けるような触れ合いも、俺には恥ずかしがってしないだけだ。

けれど、彼はどこか溌溂としない。


Skaは犬のように無垢な愛情を示しているとか、そんな甘えた話をしているのではない。

とっくの昔に、そんな考えは捨てた。狼たちが人間を群れのリーダーとして選ぶ意思を見せたからだ。

この狼が示す思慮深さは、時折り傍らに佇む賢狼の洞察をも凌駕する。それが所作に現れることは必然であって、彼らの言動に畏敬の念を覚えずにはいられない。


では、Fenrirの振舞いが隠さぬ後ろめたさとは、何だったのだろうか。



それが今、ようやく理解できた。



「フェンリ…ッ……。」



そう言い終わらない内に、彼が獣の眼を見開いてこちらを向いたのが分かった。



恐れ、だったのだ。



俺は、Fenrirが言葉の端々に滲ませた通りに、心の底では俺のことが怖いのだとばかり考えていた。

控えめに愛情を触れさせてくれたのは、その手が震えていたから。


俺が動物的でないと感じた大狼の思慮深さとはただ、怯えの表層に過ぎないのだ。

だからこそ、俺はそれを目の当たりにして戸惑わぬ、寛大な神様であろうとした。


それがこの狼と、一番長く一緒にいた友人の導き出した答えだった。




全然、違ったんだね。


Fenrirは、何も恐れてなどいなかったのだ。

これだけ無駄のない動きを見せたのは、いつ以来だろう?


間抜けで平和ボケした俺のことを、本気で怒鳴りつけた時かな。


「俺が、狼だからだ。」


そう吐き出してくれたね。




命の危険

それを今、彼は感じているんだ。




大きな口が自分に向けて開かれているのだと辛うじて分かった頃には、俺の両足は地面についていなかった。



「ぅぐっ…!?」



魂を置いて行かれそうなほど強烈な衝撃をまともに喰らい、景色がぐいと引き延ばされる。


一瞬の出来事に、状況を全くもって飲み込めない。

「……っ!?…!!」



息が、うまくできない。


「なんっ…だ…?」


耳を切る轟音のせいで、そう叫んだ確証も持てない。




次に飛び込んできた景色は、辛うじて見覚えがあった。

「……!?」


此処は…洞穴の近くにあった、河川敷、か?

のんびり歩いて数分の場所にある、Fenrirお気に入りのお昼寝スポットだったけれども、その風景が突如として飛び込んできたのだ。

それは何の変哲もなく穏やかで、先ほど見上げた悪魔の歯は夢であったのかとさえ考えてしまいたくなる。


不審な点と言えば、その穏やかな水面が俺のはるか上空を流れていたことぐらいだろうか。


少し体を押さえつける風圧が解けたので、俺は身体を回して、もう少し視野を広げようともがいてみる。



「……Fen…rir…」

振り返ると、彼の牙が柔らかく艶やかな赤紫の絨毯に敷かれているのが見える。


もう諦めているのだが、出会ってこの方一度もFenrirは、戯れにでも口を開いて中を覗かせてくれなかった。

幾ら強請っても、折角の立派な牙を披露してくれないのは、彼が口元に自分がいるのが落ち着かないからだと分かってはいたのだが。

犬歯ばかりが目立ちがちだが、こうして間近で目にすると、狼の口の並びの美しさに思わず見とれてしまう。

その舌を、もう少し引っ込めてくれたなら俺は獲物の気分を確かに味わえるのだろう。


つまり、これでようやく僅かな現状の手がかりを掴めたことになる。



「う…あ…!?」

拗けた体制のまま、俺は彼の口の中に咥えられていたのだ。




俺を背中に乗せて運ぶ猶予もないほど、切迫していたとようやく知る。

先も言ったとおりだ、こんなことを、普段のFenrirなら冗談でもやらない。


けれど、どうして?

一体、何が起こっている?



そのことを理解するための手がかりを探ろうとする前に、俺は自分の身体が再び強烈な重力に押さえつけられるのを感じた。



来る…。

反射的に筋肉を強張らせて固まるも、今度は何処まで運ばれるのかも分からない。


出来ることは精々、過って彼の牙にマントを引っ掛け、破かぬよう祈ることぐらいだったのだ。





「ぶふっ…!?」

再び、息が吸えなくなる。


ザブゥ……



次の瞬間、今度は視界が淀んだ。



これは……?


今度は、その感覚を即座に状況に結び付けることができた。

それは、俺が大嫌いな、あの瞬間であったからだ。




「ま、待っ…て…くれ!!」



Fenrirが、俺を口に咥えたまま、川の中に飛び込んだのだ。



そんなばかなっ!

俺が泳げないことを知って、どうしてそんなことするんだ?




突如としてパニックに陥った俺は、泡がぶくぶくと水面へ湧き上がるのに構わず、彼の口から抜け出そうと暴れだした。



頼む、一回水面へ上がらせてくれ!

でないと、溺れて息ができない!!



「Fenrirっ…離して…っ…フェン…リ…ル…!!」




俺は声にならない叫びをあげて、必死に彼の口を蹴る。


“……。”



無論、彼もまた会話の出来ぬ世界を共にしていたのだが、俺が暴れるのを感じてか、がっちりと押さえつけていた牙を離してくれた。


やったとばかりに水面めがけて四肢を掻くが、Fenrirの揺らいだ表情がその行く手を塞いだ。


水中でその瞳をじっと見開き、俺にこう訴えかける。

耳は、まだ塞がれてなど、いなかった。



“Teus……息を、止めるんだ。”



“……?”






“あと数秒は、我慢してくれ。”



“……死にたくなかったらな。”






その直後。



俺は水面を撫でるようにして、赤い煙が滑り、

青空を腐敗が覆いつくすのを目の当たりにする。



“フェンリル…フェンリ…ル…”


“もう少し…もう少し、耐えてくれ、Teus……。”



少しでも長く水中に留まろうと口を覆い、錯乱して首を絞めようかなどと、その手を顎の下へと伸ばす。








そう絶望するほど。

否応なしに、わかったのだ。






悪夢が、芽吹いたと。


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