99. ヒドネルム・ペッキー
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99. Devil Tooth Mushroom
冒険の帰路とは、いつだって早く済んでしまうものだ。
踏破することは困難に思われた未開の地も、友と繰り広げてきた波乱の物語も。
振り返って辿れば、あれだけの苦労はこんなものかと思えるほどに平坦で。
確かに胸を躍らせ、歩いてきた道があるとの実感。それは陳腐であったと言わされる。
そう。残りの道中をこの森は、嘘のように静まり返っていた。
行く手を阻むかに思われた怪物は、寝返りを打つことすらしなかったのだ。
無論、姿を見せぬ大蛇が残した爪痕は、俺たちの家路を大きく歪めこそしたのだ。
一度ヴァン川に大きく近づいてから、下流へと向かって行くという当初の提案。あれは早々に頓挫している。
予見できたことではあったのだが、上流の河川が遠目から見ても蹂躙されていると分かったからだ。
深くて底の見通せなかった渓谷は、今や両壁を崩され、ますます近寄りがたい裂け目と化している。
あの怪物が闊歩した後だと考えれば、その脇を通ることがどれだけ危険な行為であるかは明らかだった。
そいつの行きつく先が、Vesuvaに直行しているのではないか。そんな不安を口にすることすらも恐ろしい。
一刻も早い到着が望まれたが、命の危険を冒してまで未だ対峙せぬ海の主を、わざわざ目覚めさせるような危険を冒すこともできない。微睡みの最中にあるのなら、そうまでして近道を選ぶ必要は全くなかったのだ。
それに、海辺で見かけた生物への汚染を考えると、その付近で水を口に含むことも何処か躊躇われる。
気温が上がりつつあることを考えると、水抜きで走り続けるリスクも今は見過ごせない。
Siriusが子供を設けるために作った、あの崖の中の巣穴で、あわよくば一泊しようと考えていたのだが。
もしかすると、既に人間でないものに蹂躙され、入り口は崩れて埋まってしまっているかもしれない。
諦めるよりなさそうだ。またTeusに海岸へ連れていけと強請られたときに、少し覗いてみることにしよう。
俺たちははやる気持ちを抑え安牌をとり続け、着実にFreyaとSkaたちとの距離を縮めていった。
安息の地は、すぐそこまで迫っていたのだ。
伴って募る不安も、最高潮に達する。
まるで、これから良くないことを目の当たりにすると知っている、悪夢の類。
「ようやくだ…。」
予定通り、三日後の昼頃。
俺たちは洞穴へとたどり着いた。
先にVesuvaへと足を運ばなかったのは、頑なにヴァン川と距離をとり続けることを選んでいたからだ。
そうしなければならぬ予感に操られていた。
とはいえ、ここまでこれば、もう彼らの元へは一瞬で到着する。
ひとまずの終着点は、眼と鼻の先であったのだ。
「まあ、その目と鼻の間に、狼は距離があるのだがな。」
「ええ…近いことには変わりないでしょ…。」
長い間お疲れ様、彼は労いの言葉をかけてから脇へと飛び降りた。
それは冗談であるにしても、此処から先に待ち受ける関門が、拍子抜けするほどにちっぽけであるという感じは少しも無かった。
群れ仲間は、みな無事であるだろうか。
Freyaはお産の苦衷であっても、Teusが分かる意識を保っていられるだろうか。
胸騒ぎが、掻き毟りたいぐらいに酷い。
それさえも、叶わないような気がしてならないのだ。
これぐらいの距離なら、Teusに自らを鴉へと変えさせて、先に様子を窺わせたほうが早いだろうか。
恥を忍んで、俺が遠吠えを放っても良い。Skaたちは必ずや、答えてくれることだろう。
「……。」
一刻も早く、思い過ごしであることを確かめたい。
これが嵐の前の静けさであるとして、俺たちを襲う怪物とは、何だ?
「Fenrir…こ、これって…。」
「ああ……。」
洞穴には、誰かが立ち入った気配があった。
それは、Freyaではないだろう。非常時とは言え、Skaもそんな無礼をはたらくまい。
ましてや、別の狼でもないはずだ。
きっと。
「これは…この世界に存在して良いものなのか?」
入り口の前には、今まで目にしたことがないような植物が根を伸ばしていた。
一見して、それは茸の姿かたちをしているようだったが確信はない。
何故なら、その薄汚れて聳えた植物は、俺が見上げて傘の裏を拝むほどに膨れ上がっていたからだ。
俺たちが北海岸に向けて発ってから十日が経つ。
たったそれだけの時間で、此処まで成長するような生き物がいたならば、それは化け物と呼ばれて相応しかった。
色白い肌は、見るからに気色が悪い。
しかし見た目とは裏腹に、鼻先は危険な信号をこいつから嗅ぎ取ろうとはしなかった。
無論、それはこの茸が無害であることを少しも意味しそうになかった。
喰ってみようか、などと冗談めかす気すら起こらない。
そいつが、色鮮やかな子嚢を抱えていたからだ。
白い茎とは対照的に血のような赤い粒が、房の至る所から顔をのぞかせている。
埋め込まれた半透明の嚢は大小さまざまではあったが、どれも今にも零れそうなほどに、身を膨らませていたのだ。
吐き気の前触れか、喉の奥に唾がたまる。
「Teusよ。お前はこいつを…目にしたことがあるか?」
「ううん、初めて見た…。」
「神の栄える世界のものではない、と?」
「こんなもの、ミッドガルドにだって生える訳がないよ。」
「では、これは……」
「どの世界からの、来訪者であると言うのだ?」
無論、思考を巡らせるまでもなかった。
「“―――”……。」
俺の隣で、Teusがある名前を口にしたからだ。
「それが、あの怪物の名か?」
「ううん、違う…。」
どうして今になって、そのような重要な手がかりを示唆する。
お前はいつだって、そうして俺たちを困らせるのだ
「ではそれが、こいつの自生する世界であると…?」
「Fenrir…っ!!あれっ!!あれ見てっ!!」
「質問に答えろっ!!」
「あの茸…!!」
「なにっ!?」
「くそ……。」
彼の指さした先を見て、俺は思わず舌打ちをして逡巡する。
これが、絶望の招来というわけか。
「おい、Teus……。」
遂に、やって来たのだ。
それ以降に、言葉を繋ぐ猶予もない。
戦いは、いつだって前触れを伴わないものか。
まずいぞ、間に合うか…?
赤い液を溜めた子嚢が、膨らみつつある。