98. 大いなる精霊 2
98.The Great Spirit 2
切り立った岩肌をトカゲが這うようにしてなんとか登りきると、既に俺達は先を越されていると分かった。
「見ろ…」
隆起したばかりの地層が頑丈で助かった。
爪を喰いこませただけで忽ち崩れ落ちる、砂のような岩壁であったなら、俺たちは地の底で立ち往生させられていたに違いない。
しかし逆を言うと、‘そいつ’ は地中からどんな地形も歪ませることができることを示唆していた。
目の前の景色は、それを揺るぎない確信へと昇華させる。
未だ元凶は根の深くに潜み、その一端すらも見出せない。
だが、たった今俺達の背後の世界を切り取った怪物は、悠々とその存在を地上に知らしめしていたのだ。
「あんな山脈、この森には無かった。」
「うそ、でしょ…?」
恐らくこの付近一帯も、遠方から眺めればこのような有様であるに違いない。
割れた地面が亀裂を噛み合わせ、遥か遠くまで連なり尾根を為していたのだ。
毛皮を剥ぎ取られた様に大木が剥がれ落ち、醜い山肌が露わにされている。
至る所で煙が立ち上り、鳥たちが、その周囲を黒い花粉のように舞っていた。
「挨拶を終えてから、僅か数分であんな遠くまで至って見せた、というのか…?」
どいつもこいつも、俺の自慢の豪脚を虚仮にしてくれる。
地べたを駆け回る限り、どれだけ速く、遠くへ走ろうとも、彼らのような全能には敵わないのだと、何度思い知らされたことだろうか。
地下世界の交通事情は知らないが、俺ではその尻尾すら掴めそうにない。
だが、この期に及んで奇妙であると思えたことはあるものだ。
「同類の、臭いがするな。」
こいつは、FreyaやVesuvaのような、いわゆる瞬間的な移動をしていない。
ちゃんと脚が生えているかも怪しいが、少なくとも俺と同じように地続きな世界を這いずり回っている。
俺の耳には、その滑るような動きが届いていた。
それでいて、殆ど一瞬のうちに遠く離れた地点で、大規模な自然災害を起こして見せた。
このことから言える事実は一つ。
「こいつは、相当に図体がでかい…。」
俺なんかの比ではない。
そのような奴がこの森を布団のようにして寝そべっていると考えると、合点が行く。
右手を持ち上げ布団を剥いだと同時に、左ひざを立てたのなら、確かにこんな荒山が出来てもおかしくなさそうだ。
「そして、日の目を浴びずとも、居心地の良い地中で、悠々とその身を肥え太らせてきた…。」
そのような怪物とは、例えば…。
「‘大蛇’ …などが相応しいだろうか。」
外の世界に疎い俺の憶測は、果たしてどうだろう。
中々に当たっていると言えそうか?Teusよ。
どうして蛇を喩えとして挙げたのか、それは自分でも分からなかったが、彼に少しの言い逃れもできぬよう、ゆっくりと戸愚呂を巻くようにして詰め寄ったからかも知れない。
走り続ける俺の上から見る、崩れた世界を目の当たりにして、ようやく彼は口を開いた。
「Fenrirに……言わなきゃいけないことがある。」
「黙っていようと思っていた訳では、決してないんだ。」
そんな前置きをする間にも、左手の渓谷からは、奴が暴れ回って幾筋もの煙が立ち昇る。
「そうだろうとも。お前は何一つ、この檻の外の世界について言及する必要が無い。」
「ごめん……。」
「でも、俺は出来る限り君に、ヴァン川の向こう側の世界を見せようとしてきたつもりなんだ…」
「ああ、感謝しているとも。」
その話は、またゆっくりしようではないか。
さあ、続けてくれ。
お前が口を開く気になってくれただけで嬉しい。お前が俺に同じことを思ってくれていたのかは、想像するのも恐ろしいがな。
「Fenrirの推理は、殆ど当たっている…。」
俺はFenrirが産まれて間もない頃、アースガルズに住んでいた君のことを、直接ではないにしても知っていた。当時あの都に住んでいた神たちは皆そうだったと思う。
追放に至るまでの悲劇を、誰であっても耳にはしていたんだ。
それに対して、この話はあまり大衆に知れ渡ってはいない。
だから俺も、小耳に挟んだ程度。信憑性は、Fenrirをこの森で目にする前よりも薄い。
だけど、その噂は本当だったと言わざるを得ない。
現実に、こうして俺達の足元に巣食っていたのだから。
これは、Fenrirが産まれ、捨てられた。その数年後の話。
再びこのような噂が、アースガルズ中に広まっていたんだ。
「怪物の仔が、再び産まれたと…。」
「い、今なんと……!?」
動揺を隠せず見えもしない頭上のTeusを見上げ、思わず走る脚を止めそうになった。
実際、このような危機的状況でなかったなら、二人きりの今こそ、腰を押し付けて、じっくり耳を傾けていたいような話を彼は切り出したのだ。
良かれと思ってのことだろうが、黙っていたことを恨みたくもなるぞ。
どんな感情でその物語の続きを聞いてよいか、分からぬではないか。
猛スピードでの縦断を続ける中でも平静を保ってきた心臓が、初めて奇妙な鼓動を聞かせる。
赤の他人として、恐れ慄けば、少しは俺もまともなふりが出来るようになったと言ってよいだろうか。
それは俺のことを忌み嫌ってくれた、心優しい神々の気持ちが、理解できるようになったことを意味するから。
或いは、本能からの喜びに近い共鳴を謳いたいのだ。
こいつは、今紛れもなく、’再び’ という言葉を使った。
言葉尻を捕らえて弄しようと言うのではない。
だが、お前を含めた彼らにとって、今まさに対峙しているそやつは、俺の同胞であるのだ。
もしも、その生い立ちに自分と重なるものがあれば。
…俺は変な期待を抱かずにはいられない。
見当違いな胸の高鳴りであると、笑ってくれよう。
「俺も詳しい話は分からないんだ…!」
でもそいつは、アースガルズには今は生息していなくて。
産まれた時はこんな風に、自然災害を意のままに起こせるほど巨大では無かったはずだ。
「捨てておいて、随分と虫の良い……。」
そいつは、いつ頃生まれさせられた?
憶測ではあるが、生まれて間もなく、追放させられたのだろう?
名前は、あるのか?
もしやと思うが、お前はそいつの親を、知っているのか?
矢継ぎ早に攻め立てても、詮無きことだ。
敢えて聞かぬのも、お前を苦しめるようでこの際面白い。
しかし一つだけ、聞いておきたかったのは。
「こんなにもこの世界は、怪物を生み出すことに…躊躇がないのか?」
俺だけに与えられた役に思われたこの姿は、決して唯一などでは無かったのだ。
ただ俺だけが、醜い姿を蔑まれ。
それ故に、俺を愛そうとしてくれる愚かな神様がいてくれた。
そんな幸せな妄想に、浸り続けていたのに。
俺は。やはり主人公などではない。
それは余りにも、狼に残酷ではないのか?
それだけだ。
「…もう良い。」
「一刻も早く、そいつとの邂逅を果たさねばならぬ。」
この舞台を、俺はもう普通に生きられそうにない。