98. 大いなる精霊
98. The Great Spirit
「…いつものように気は使っていられぬ。振り落とされぬよう、しかと掴まっていろ。」
「……。」
「夜通しでスピードは、落とさぬつもりだ。見立てでは、三日だ。」
Teusは何も答えず、俺の背中に乗り込んで俯せの姿勢を取った。
固く口を閉ざしたままのTeusを乗せて走るのがこんなにも面白くないとは思わなかった。
それは俺が行きの道中で望んだことであったにも拘らず、だ。
これから起こるであろう悲劇に備え、何かを深く考え込んでいると言うのなら、まだ良かった。
彼が答えを導くのに必要な時間で、俺は少しでも距離を詰めることに集中することを選んだだろう。
けれどこいつは、ずっと泣いていた。
声を押し殺し、きつく目を瞑り、聞こえなくなった耳を塞ぎながら。
「Teus……。」
だから、俺の呼びかけにも応じない。
辛かっただろう。
必ず、生きて返さねばらなぬ。
額をつけて平伏し、Skaに赦しを乞わせるのだ。
あんなにもお前に尽くしてきた狼に己の無力を嘆かせるなど、あってなるものか。
もう一度、あいつに尻尾を振らせてやる。
とにかく脚を回し、息を切らさぬギリギリのペースで森を駆け抜ける。
半ば眠気でぼうっとしてくる頭を四肢と切り離し、ただ目の前の微妙な路面の変化に反応し続けた。
時おり乗り手の声が聞こえてきた気がして目を醒ますが、それ以外は、ずっと眠っていたのだ。
それが出来るのは、この縄張りの中だけ。
あの冬の微睡みだ。身体をSiriusへ明け渡すがごとく、心地よかったのだ。
現に浮かぶのは、あの座礁。
あの光景は、確かにおぞましかった。
しかし、この神様は怯えることを、生まれながらに許されていない。
血相を変えた以上、心当たりがあるのは明らかだ。
彼は旅の道中で目にした超常現象を、好奇心に満ちた目で驚いてきた。
歓声だって混じっていた。だからお前にとびきりの景色を披露するのが好きだった。
この大海原でさえ、溺れる前からあのような表情を見せたことはない。
「どうだ。話す気にはなれぬか。」
「……。」
お前は、ただでさえ狼に比べて耳が鈍い。
それなのに、耳を塞いでいては。
「知らせておくべきことは、無いのだな?」
恐れるべきものすら、見出せぬであろう。
それとも、戦の神とは、本当に畏怖を忘れた愚か者であると言うのか?
「既にそいつは、動き出しているようなのだぞ。」
「……!?」
踏み外した後ろ脚が、宙を掻く。
俺は目の前に表れた地層に乗り遅れないよう、この帰り道で初めて俊敏な一歩を見せた。
ズズッ…ズゴゴゴゴ……
地震だ。
俺達は、旅の道中で起きた、あの地殻変動の瞬間を目の当たりにしているのだ。
前兆は、俺でも微かに地中で蠢くのを聞き取れた程度。
それでも、今までで一番、地表へと迫っているのだと分かった。
「くそっ…!!」
抗い難い浮遊感に平衡感覚を失い、四つ足でも立っていられない。
先までは、平坦な獣道の連続だったと言うのに。
みるみるうちに高さを増す崖に爪を喰いこませると、俺は壁の上昇に身を任せることを決めた。
「頼むから、その両手を使ってくれ!!」
忽ち上体は浮き、彼が背中の毛皮から滑り出すのを感じる。
「Teusっ!!!」
「……っ!?うぁっ!?うゎぁぁああああああああっっっ!?」
…ったく。どうしてこの期に及んで、俺の手を煩わせるような真似をする!?
そんなにも、お前は昔を懐かしんでいたいのか?
ああ、そうだったな。だからお前は酒にも溺れたし、二度も人に心を許した狼を傷つけた。
付き合っていられない。
俺はもう、お前が谷底へと墜ちていくのを楽しむのは見飽きたぞ。
「…掴まっていろと言った筈だ。」
背後の地盤が沈下したのか。それとも目の前の景色が天へと近づいたのか。
いずれにしろ、下らん救出劇は、これっきりにしよう。
ばらばらと岩の板が剥がれ落ちる音は、遥か奥底で砕けた。
「ようやく俺の土俵で、恩返しが出来そうだと言うのに。」
お前はずっと、ヴァン川の向こうで苦しんできた。
それは知っていたとも。
けれど、直接そんな友達に逢いに行くようなこと。
俺にはできなかったのだ。
Skaがいなければ、今頃お前とFreyaは、どうなっていただろうか。
Vesuvaさえも、境界線を越えてしまった。
俺一匹だけが取り残されたような気分であるのだぞ。
しかし、今や全ては逆転した。
狂気じみていると思うだろう。この混乱に、浮足立っている自分がいるのだ。
恰好の退屈しのぎが襲いに来た、と。
この崩れ行く縄張りで立っていられるのは、俺のような大狼だけであるのだからな。
独り占めしてやりたいのだ。
理想の舞台に引き摺り出された、そう感じている。
お前を此処から連れ出すことのできる狼は。
ああ、俺一匹のみだとも。
「…このままでは、俺はお前を、助けてやれない。」
尖った鼻先に腹を貫かれるようにして、彼は落命を免れた。
「あ…あ、あぁっ……ぁ…はぁ…。」
息が詰まったらしい。ぼうっとしているからそうなる。
しかし、お互いに目が醒めただろう。
「少しは、口を開く気になったか?」
お前は、知っているはずだ。
「地中奥深くで駆けずり回る怪物の正体は…一体なんだ?」