97. 聞こえない
97. Go Deaf
「こ、これは……。」
「急いで帰ったほうが、良いかも知れない。」
翌朝未明にその光景を見せられたTeusの顔面は、蒼白だった。
その目は怪物を見るように怯え、それが俺に対する眼差しであるのでは、などと心を狂わされずにはいられない。
折角の休暇を邪魔するような報告をして済まなかったと思っている。
そう詫びずにはいられなかった。これを不吉の予兆と捉えぬ訳にはいかないとはいえ、一緒にのんびりと帰り道を楽しむ約束はやむを得ず反故になってしまったのだから。
しかし、彼にはそれを惜しむ余裕すら残されていないようだ。
「とんでもないよ…報告してくれて、ありがとう。」
辛うじてそう答えるので、精いっぱいのようだったから。
「話は後だ…皆が安全かどうか、見に行って欲しい。」
神族の長としての責務を軽んじ、俺と遊ぶことを望んでいても、彼は直ちにその名に相応しい振舞いをして見せた。
FreyaとSkaに直ちにVesuvaへ戻るよう指示を出し、必ず自分が戻るまでは、危険な行動は慎み、身の安全を最優先してほしいと付け加える。
「……わかりました。」
“お前は、有事の際にFreyaによってこいつのもとへ転送されることを覚悟せよ。”
厳戒態勢が敷かれることを直ちに理解したSkaも、耳と尾を勇ましく立て、狩りを行う前のような表情でFreyaの傍らに寄り添う。
“わかりました。Freyaさんの言伝を、Teus様に届けさせてください。”
“うむ、頼んだぞ。”
そのようなことが起こらないのを、ただ祈るばかりだ。
“Fenrirさん……。Teus様のこと、どうかよろしくお願いしますっ!”
“ああ、任せておけ。”
俺だって、お前のように、こいつを護ってみたい。
必ずこいつは、生きてVesuvaまで返す。
それが叶わぬことを想像することすら、難しいであろう。
“しかしSka、お前は違う。”
“…どういう意味、ですか?”
“お前に、そのような義務はないと言う意味だ。”
“な、何を言ってるんですか!? 僕は…!!”
「Ska。…くれぐれも、Freyaのことを護ろうなどと考えるんじゃないぞ!」
“えっ…?”
俺たち狼の会話に、そいつは厳しく、鋭い口調で割って入ってきた。
唯一その言葉を知らぬ筈だったが、長老様と言い、彼らは本当にその力に欠けているのか、疑わしい。
「Teus、それはお前が決めることでは…」
「Fenrirは黙っててくれっ!」
「そうはいかぬ。お前がそれを口にすることが、こいつにとってどれだけの意味を……!!」
「それも覚悟の上だっ!!」
「……。」
「…大ばか者が。」
「ありがとう。Fenrir。」
Teusはやはりいつものように、外套の裾を地面に降ろして膝まづくと、Skaの両頬に手を添えて微笑んだ。
「……良いかい?Ska。もうあんまり時間がないかも知れないから、よーく聞いて。」
“Te、Teusさま……?”
「俺たちは群れのもとへ、一刻も早く帰らなくちゃならない。」
皆のことが心配なのは、Skaも同じだと思う。
もしも、仲間のうちの一匹が、Siriusと同じ目にでも遭ったりしたら。
そう考えるだけで、尻尾を噛みちぎりたい衝動に駆られるよね。
「何にも起きなければ、それに越したことはないんだ。」
もし、これがただの思い過ごしなのだったら、次はFenrirの誕生日を祝う準備をしよう。
Freyaとは、また別の機会に、此処へやってくると良い。
まだ周囲の冒険も碌に済んでいないだろうから、Fenrirも呼んで、一緒に周囲を見て回ると良いよ。
“……はい、わかりました。”
随分と俺を巻き込んでおきながら、聞いた覚えのない約束を取り付けるのだな。
事前に耳にしておかなければ、迷惑極まりないところだった。
「だけど……。だけど、もし…」
「もしも、Vesuvaが、侵されるようなことが起きたなら。」
「俺は、君を捨てる。」
“……?”
“今…なん、て……?”
「Skaは、自分の群れのことだけを心配していれば良い。」
“い…や…です…”
「人間との主従関係なんて、これっぽちだとすぐに分かるから。」
“……いぃ…いゃだぁ……。”
“そ…ん…な、のぉ……”
「そんな優しい気持ちすら、きっとすぐに忘れられる。」
「Skaは、それだけ幸せな群れで暮らす狼だからね。」
「人間の言葉を解するその力も、直に必要なくなるさ。」
“うぁぁっ…あぁぁっ…ぁぁぁっ…てぃうぅ……さまぁぁ…うあ゛ぁぁっ…”
「……。」
Teusはその力を、この時失ったのだ。
泣き腫らして呆然としたSkaに、膝を崩して寄り添うFreyaの姿は、まさにその構図を示している。
何処からどのように解釈を加えても、Teusは明らかに一匹の狼を傷つけ辱めた。
女神はその狼の元へと降り立ち、代わってその男を見上げているのだ。
流石にばつが悪かったようだ。
目を合わせることすら、試みようとしない。
「テュールさん。」
「……。」
「貴方の帰りを、待っています。」
「……Freya。」
二人の交わす言葉は、狼のように静かで、ともすれば寂しさまで伴った。
「…ありがとう。」
両腕を伸ばした彼女をきつく抱きしめると。
あいつは一言だけそう呟いて、
彼女の像を、付き狼と共に、
この世界から失っていく。