95. 座礁 3
95. Death Stranding 3
食後の昼寝を除けば、殆ど休みなく走り続け、もう丸4日が経とうとしている。
Teusは何度も俺に急がなくて良いと諫めたのだが、嫌ならお前をこの場に置いていくぞと言っては彼を無理やり背中に乗せた。
甘いものを食い過ぎたからな、ダイエットというやつが今の俺には必要だ。
久しぶりに筋肉の隅々が震え、俺は満足しているぞ。
などとそれらしい言い訳をして、駆り立てられたように先を急いだ。
勿論、俺の手綱は握らせてやっていた。
彼が話をしたいと言えば、俺は喜んでスピードを落とし、耳を普段よりくいくいと動かして会話に応じた。
毛皮に突っ伏して眠りに落ちれば、揺り籠となってやれるぐらいのリズムで尻尾を振り歩いた。
どうして、昔みたいに道中を楽しもうとしないのか、だと?
何のことは無い。
あんなことを言い放ってしまったから、お前と顔を合わせるのが、一秒でも耐えられなかっただけだ。
本音を言えば、色々と様変わりした景色を披露したかった。
早朝の霞に包まれて、天の上を歩けるようになったあの丘を今度こそ。などと企んでいたのは本当だ。
疲れてはいるだろうが、今のお前は、あの時ほど身体の具合も悪くない。
お前が奇跡を起こした跡地も、通りかかるぐらいはしたかった。
きっと其処には、何もないのだろう。しかし、ヴァナヘイムへの帰還を果たした偉大なる神を称えるには相応しいと思うのだ。
あの時はお互いに、大変だった。だけど俺たちは、乗り越えたんだよね、そう笑い合える気がしたのだ。
何も起こらないこと、それが重要なのだ。
お前のお陰で辿り着かずに済んだ境地を覗き込み、俺は変な気を起こさぬ常人であることを確かめたい気持ちがあった。
上り詰めた山頂の崖から見下ろした景色を眺めていると、ふとそこから飛び降りて、命を落としてみたくなるような。
そんなあり得ぬ衝動が、前触れなく頭を擡げたりしないだろうか。
それだけでも、俺はお前がいるところで確かめたかった。
けれど、どうやら無理そうだな。
こいつと一緒に眠ることをしたのは、初めの夜だけだった。
その時に、見てしまったのだ。
俺は少し先の未来さえも、見通せぬ神様らしい。
お前がそんなにも悲しそうな顔をしてしまうだなんて、想像しようともしなかった。
忽ち旅とは手段と化した。
俺は戦車馬へと堕し、こいつは俺に鞭打つ軍神へと成り果てたのだ。
敗走の路と言えば、聞こえは一層無様で良い。
だが幾ら逃げ続けようと、終わりは必ず先回りをして目の前に立ちはだかる。
5日目の夕刻、見覚えのある大河口が近づいてきたところで、俺は終局を告げた。
「身体を起こせ…間もなくだ。」
「…うん、お疲れ様。」
覚えているだろうか。
此処から一気に海原へと駆け、お前にこの世界の果てを御覧に入れたのだった。
その時の歓声が、貝殻を耳に当てたように木霊する。
尤も、俺には宛がうために握る両手が無いのだがな。
眠る枕元に、添えておくだけで良いのだ。
懐かしいな。
堕ちし夕日は、また違った色の地平を見せてくれることだろう。
「……Fenrirの毛皮が…真っ赤っかだ。」
「ああ、済まぬ。邪魔であったか。」
耳の隙間から先の景色が見えるようにと、俺は慌てて毛深いお山を下げる。
「いや、前はちゃんと見えてるから大丈夫だよ。ただ、目の前に飛び込んできて、奇麗だったから…。」
「そんな景色であれば、此処までやって来ずとも、見せてやれたんだがなあ。」
「まあまあ、そう言わずに…。」
そこからはTeusを降ろし、並んで歩くことにした。
波打ち際まで、ゆったりと潮風の匂いを堪能する。
それは、あまり好きな匂いではなかったのだが。
これが唯一、旅の足跡を想起させる思い出だったのだ。
「この砂浜を蝕むリズムを、ずっと貝の裏から聞き入っていた…。」
「また随分と詩的な…。」
互いが必死に、会話の糸口を探していたのだとわかる。
「確かにヴァン川の河畔では、こんな風には聞こえない。」
「ああ…。」
「……良いもんだよね。Fenrir。」
「……うむ。」
生返事をしてしまったが、気を悪くした様子もない。
前にも、海暮らしは好まないと伝えたからな。
狼に、魚のみを食して暮らせと言うほうが酷だ。
「夢みたいだよ…またここに来れるだなんて。」
「そんなに気に入っていたとはな。連れてきた甲斐があった。」
「お世辞で言ってるんじゃないよ。本当に、この場所は思い出が強かったから…」
「ああ、危うく溺死するところだったものな。」
「う…もう二度と泳がない。」
「そうしてくれ。」
こいつは殊更に海原を怖がるくせに、浜辺で過ごすのが大好きだ。
それは、俺が人間との遭遇を極度に怖がるくせに、ヴァン川の流れで喉を潤したがるのと同じか。
「まあ…もっと他の場所も、見て回りたかったけどね…」
そんなに気を使ってくれるのか。お前は本当に、優しいよ。
喜んでそうしてやりたい気持ちでいっぱいだ。…が、済まないな。
「それは出来ぬ相談だ。俺には、Vesuvaの王を長きにわたって不在とさせる罪は犯せない。」
「でも言っただろ、これはただの休暇であって…。」
「お前の立場は変わった…!」
「……。」
昔のように、Freyaを置き去りにして冒険に現を抜かすことに楽しみを見出してはならない。
ただでさえ、アースガルズでの長期滞在で、留守にされていたのだ。
群れは一刻も早いご帰還を、待っているぞ。
お前の妻は、歩くこともできずに、窓辺を眺めているのだ。
「でも、帰りにちょっと寄り道するくらい…」
「Teus…!」
「……。」
「どうしてだよお…Fenrir…」
「冷たいよぉ……。」
「冬はあんなに、素敵な景色を見せてくれたじゃん……。」
「俺は変わらず、Fenrirの友達でいたいのに…なんで………」
「……ああっ!分かった!分かったから!帰りは数泊だけ何処かで休むとしよう…」
「……。」
お願いだから、そうやって泣き顔をつくらないでくれ。
お前が瞳に涙を浮かべるだけで、もう俺は気が狂いそうだ。
その裏返った掠れ声を聞くと、もう頭を地面に強くぶつけて、気を失ってしまいたい。
逃げたい。それもできなかった。
強引に鼻面へと抱き着かれ、震える彼の啜り泣きを間近で聞かされる。
「わ、悪かった…俺は、お、前を決して嫌いになった訳では…た、ただ…。」
「ただ……。」
「……遠くて。」
お前は本当に、周囲を巻き込みながら、俺の世界を変えてしまった。
今やお前は、ヴァナヘイムの英雄。
群れを率いる王。
俺には、とても…
友達のうちの一匹となれない。
あまりにも、みすぼらしいのだ。
Siriusを崇めるように、陰でそっと溜息をついていたいほど。
お前は、輝いて見える。
「お前に救われて、本当に良かった。」
影ながらで良いのだ、Teus。
俺は、遠くでお前と通じ合っているぐらいが、ちょうど良い。
偶に表舞台に立つことがあるのなら、それは碌な理由であってはならぬ。
Teus。本音を言えば、お前を返したくなんかない。
ずっと一緒に、旅をしようと誘いたい。
お前が笑ってくれるなら、俺は何だってしたいのだ。
元より、俺が生かされた意味なんて、それだけしかなかったのだからな。
何の誇張もなく、お前がすべてだったのだ。
もし俺が、Siriusという名の大狼に至れたのだとしても。
それはきっと、生きる上での一つの到達点に過ぎない。
得られた途方もない誇りを、ただお前に捧げたことだろう。
そんなこともできなかった俺にしてやれることなど、高が知れている。
しかし生かされている限り、俺は、お前にずっと笑っていて欲しい。
その為であるのなら…。
いいさ、俺は喜んでお前をVesuvaから攫う、悪名高き狼となってやろう。
「俺は…悪になる。」
そう意地らしく笑ってやった。
お前は、俺が走らなくては、帰還を果たすことさえ許されないのだ。
自分のその脚で、一体どうしてこの森を抜け出せよう?
俺が休みたいと言えば、そこに数日留まるしかない。
ちょっと寄り道をさせろと宣えば、従うしかないのだ。
どうだ、とんでもない悪役だとは、思わんか。
「よし、俺は数日は此処から動かんぞ。梃子でも動かぬ。走り疲れたのだ。」
「Fenrir…?」
「無口な友にうんざりとするだろうよ。お前は、きっと暇を持て余す。」
「それは、余りにも退屈だとは思わんか?」
「……そんなことないよ?」
「ふん、俺はごめんだな。」
「自分で言っておいて何さ…。」
良いではないか。俺は一応、お前の我が儘に振り回されている身だぞ?
「さあ、舞台は整ったのだ。手筈の通り、今すぐに此処へ呼ぶがよい。」
「お前の…最愛の人を。」