93. 運命を変える者
93. Faithshifter
帰りは、俺がSiriusを送り届けてやる手筈となっていた。
きっと彼は一匹で帰りたがるだろう。Skaはそのように予見していたが、幸いにも小さな勇者は疲れ果て、怪物の背中の上ですやすやと眠ってしまった。
これでは当分、目を覚まさないだろう。起きたら心底悔しがるかもしれないが、お前はもう群れに戻る時間だ。
だが、これは夢ではない。
楽しいひと時であったぞ。
Teusと大して変わらぬ重さを背中に感じながら、俺は揺り籠になったつもりで起伏に富んだ獣道を歩く。
あいつですら手を焼く怪物がその場で突っ伏して大泣きをするなど、彼は心底困ったことだろう。
随分と取り乱した。気持ち悪いと思われていたら、それもしかたあるまい。
伝説とは、相対したときから幻滅していくもの。そう教わった。
少なくとも、俺はSiriusという名の大狼のことを彼の前では忘れようと思った。
この若狼を、誰もが特別に想っている。俺もまた、そのうちの一匹だ。
理由は何であれ、それぞれ良い。
可愛い息子であったり、冒険を共にする兄弟であったり、或いは勇気を示した英雄として。
お前が俺にとって、特別でない訳がない。
その脚に非情な牙を突き立てたのは、他でもないこの怪物であるのだから。
だから、一生をかけてでも、お前に寄り添うつもりだ。
お前が狩りに赴きたいと言うのなら、獲物を従わせてでも、手柄を与えてやる。
一緒に走りたいのなら、ヴァン川を超えることだって、躊躇わない。
また、遊びに来ると言っても。
俺はやめてくれなどと、懇願したりしない。
しかし、そんな彼へのあらゆる愛情を、与えられた名によって縛ってはならない。
だって、たとえ貴方と出会えなかったとしても。俺はこの仔のことを全力で救いたがったはずだから。
あの夜の遠吠えは、我が琴線ちぎれるほどに、素晴らしかった。
この仔は、特別でなどありたくはないと伝えてくれた。
決して、子供心に跳ね除けたくなったからではないと思う。
それでも尚、特別だと思ってくれるのなら、ありがとうと言ってくれたからだ。
特別、か。
俺はSiriusという名を知らなかったとしても、お前を大切に想っているぞ。
だから、重ね合わせるのはやめた。
済まなかった。
勝手に俺は、お前を見て苦しんでいた。
それでは、お前は苦しく思うよな。
もう少し頑張って、次は笑ってみせよう。
Sirius。
忘れようとは。貴方に無礼をはたらく意味ではありません。
必ずや、このまま覚えていたいと思っています。
たとえそれが、己が首筋に牙を刻み続けることだとしても。
ヴァン川の西岸へと抜け、赤松の庇から空を仰ぐ。
勇み足が過ぎたようだ。日が沈むには、まだ十分な時間を有していると分かった。
これなら彼が目を醒ますまで、のんびりと添い寝をしていても良かったのかもしれないな。
とんでもない大実態だ。しかし、今更帰るわけにもいくまい。
今度は気持ちのよい野原で、日向ぼっこをしような。
とっておきの場所を、お前にだけ教えてやる。
そう心の中で語り掛け、ゆっくりと入水したときだった。
……?
俺は下流の中央に、一人佇む少女を見かけたのだ。
揺らぐ水面に脚を浸し、東岸を眺めて立っている。
思わず歩みを止め、息を潜めて様子を伺う。
「……。」
しかし数刻を待たずして、俺は尾の力を抜いた。
半身しか拝めずにいたが、恐らく彼女だろう。
その姿を初めて目にしたが、この森へは、その姿で駆けつけてくれたのだな。
できれば、やめてもらいたい。
もし見知らぬ神様が此処へと迷い込んできたのなら、遠目には見分けがつかぬ。
しかし、礼を言うぞ。
ありがとう。この仔を見守ってくれて。
ゆっくりと首を傾げ、礼儀正しく目を逸らす。
俺は毛皮を濡らしたままヴァン川を後にし、群れ仲間の元へと向かって行った。
彼女は黒ずんだ一凛の花を抱え、微笑んでいる。
「もうすぐ、やってくるわ。」