92. はるばる 5
92. Beyond the woodland 5
並んでのんびりと歩いているつもりでも、歩幅の差から結局彼を急かしてしまいかねない。
俺は殊更にのんびりと歩き、飽くまで春の日よりを楽しむように努めた。
短い散歩の道中では、彼の何気ない所作を間近に観察することを許された。
端的に言えば俺は、身体のあらゆる動きが集約されるであろう、歩くという動作を後ろから見たがったのだ。
もう、足を取られて転びそうな気配は微塵もない。それは今日、Siriusが自力で此処までやって来たことが十分に示していることだ。それでも俺は、両親と同じぐらいに彼が何か煩わしさを感じてはいないかと、気になって仕方が無かったのだ。
普段は立場上、ヴァナヘイムでの狼たちとの交流は最小限に留めているため、口伝えにしか彼の様子を聞くことが出来ていなかった。それ故こうした現状を理解する機会はとても貴重と言える。
もしかすれば、俺の方から気が付いた点を、遠回しにでも助言してやれなくもない。
結論として、彼は実に軽快に歩んだ。
余程時間をかけて、リハビリに励んだに違いない。己の一部として上手に後ろ脚を運ぶ様子は、幾千も繰り返された様に淀みが無かった。
それでいて、今のままでは致命的な問題となり得る懸念も幾つか見出された。
一つは彼自身も自覚していることだろうが、座って休むのに楽な姿勢を見つけられていないことだ。
義足の性質上、脚を伸ばしたままでいられる立ちの姿勢の方が、彼にとって最も楽であったのだと容易に理解できる。恐らくSiriusはかなりの時間を四つ足で立ったまま過ごしていて、それがかなりの体力を奪っていそうだった。
今は、若いから気にならないだろう。しかし、あと数年もしてSkaぐらいの年齢を迎えた時に、上手休めないことが身体に無視できない影響を及ぼすと俺は予見する。
それと、もう一つは無自覚であって、今すぐにでも矯正した方がよい。彼のフォームに関する話だ。
四つ足というのは、実に衝撃に強い姿勢だ。衝撃を分散できる数が多い上に、重心が地面に近い状態を維持できる。
衝撃を吸収する箇所は、主に関節となるのだが、彼はその役割を右後脚についてのみ、股関節に託してしまっている。それが非常によくない。自分で感じている以上に、大きな負荷が一か所に集中しているのだ。
少しでも義足の接合部位の負担を軽減するために、まずは踵を上手に使えるようになってはどうか、と見ている側としては思う。
幸い、朽ちかけの流木でも神の祝福が成されたそれだ。よくしなるので、折れずに衝撃を吸収するだろう。
彼がその技能さえ身に着ければ、狼としての走りは一気に飛躍する。
ともすれば、その一歩は寧ろ周囲に差をつけるかも知れない。そんな気さえするのだ。
まあそんな、走りにうるさい理論的な一面を彼に押し付けても仕方がないよな。
“今度、一緒につま先立ちの練習をしような。”
尻尾を巻いて逃げ出した会話の糸口を捕まえようと、俺はそう一言だけ、また会えるような約束を口にする。
それからはジャンプで、先の着地の感覚をつかむと良い。
“僕ね、寄りかかって立つぐらいなら、できるんだ。”
ほら見て。そう言うと、彼は近場にあった大樹に腹をつけるようにして、その大きな巨体をぐわりと起こした。
“おお、器用だな。”
Skaの身長は、Teusをわずかに超える。雪原に立つ主人に元気よく飛びかかったときに、彼のほうが押し倒される側だ。そしてSiriusは、ちょうど彼と同じぐらいの高さに鼻先が届くぐらいか。
本当に、すくすくと成長して見せたなと思う。
俺もきっと、他人のことを言えた義理ではないのだろうが、その速度は語弊なく怪物的だ。
冬がやってくる前にお前の名を聞かされたときは、この姿を想像することに、怯えすら抱いていたような気がして、それを遠い未来の話だと思い込んでいた節がある。是非とも拝んでみたい、そんな好奇心が冗談として程よく心地よかった。
彼は、これから群れの一匹としての思慮を身に着けるだろう。
その中には、歪な要素を含み、きっとこれからも変容を続ける。
新Vesuvaで何事もなく一生を過ごすことは、まずないだろう。
ずっとTeusとFreyaが傍らで世話を焼いてくれるとも限らない。
彼自身が、新天地を求めて、番を求めて、旅立つことだってあるだろう。
そのときに、俺は笑顔で送り出せるだろうか。
SkaとYonah、それから兄弟たちが笑顔で見送る、その陰で。
一匹でめそめそと涙を流してはいないだろうか。
強く、優しくなった一匹の狼の名を、
いよいよ私は、遠い存在として呼び慕うのですね。
“あ、見てみて、Fenrirさん。……もうすぐ、この蕾が咲きそうです。”
ちょうど彼の鼻先で匂いを嗅ぐことのできる高さで、小さな春の芽が膨らみつつあったようだ。
“ああ……そうかも知れぬな。”
よく気が付いた。吉兆に違いない。
“さあ、着いたぞ。”
“意外と近かったですね。僕、もっと歩きたかったです。”
ヴァン川に比べれば、眼と鼻の先であるからな。
俺もお前との散歩の時間が終わるのが惜しい。
思い返せば、このような日和であった気がしなくもない。
対岸で力尽き倒れていた俺のことを、あいつは必死の形相で介抱していたっけな。
良い思い出とは。決して言うまい。
目を細めたくなるような春の邪気に、そう惑わされているだけだ。
こんな景色からはやはり目を背けて、俺は季節が巡るまで洞穴の奥底で微睡んでいたい。
“どうした?”
“ううん…なんでもない。”
初めは、彼がごちそうの味が残る幸せな口の余韻を洗い流すのが惜しいのかと思った。
しかし俺は足元を注意深く観察しすぎていた。水面を舌で乱そうと言うとき、彼が流木の脚を浸すのを酷く気にしているのに気が付いたのだ。
“濡れると、沁みるのか…?”
“そんなことないよ。でも…”
“でも…?”
俺はまたしても、その先を促してはならない気がした。
野暮な心配を口にした、そう詫びて済ませようか。
笑えば、Teusのように笑い返してくれるかも。
“許されない、そう思っている。”
“え…?”
気が付けば、そんなことを口走っていた。
“だが俺は…いつまでも、いつまでも。”
“お前に首を垂れる。”
何十年、何百年、それよりも長い間を別の世界で生かされ続けるのだとしても。
俺は、罪を天に向かって叫び続ける。
そして貴方にしたことを、決して許されたくない。
“…Fenrir、さん?”
流れの絶えた水面が、揺れた。
“ごめんなさい。…シリウス。”
俺は、何をこの仔に語っているのだろう。
そんな決意など、彼はもとより、目の前の狼には、少しの意味もなさないと言うのに。
“Fenrirさん。”
“僕の運命は。
僕は。僕の脚が、こんな風なのは。”
“…貴方にとって、特別ですか?”
……?
特別、か?
“僕はね、ちっちゃい頃から怖がりで、兄弟のみんなに遊びで負かされてきてばかりだったから。
ちゃんと群れの一員として、皆と暮らせるようになりたかったの。
皆が走るスピードに追い付けるようになるのが、僕の夢だった。
もちろん、Fenrirさんも、そのうちの一匹です。
だからやっと遊びに来れて、ほんとに今日は嬉しい記念日だよ。
獲物を捕まえるのはとっても難しいし、ぼーっとしている僕には一生無理かもと思っていたけれど。
それも今は、もしかしたらって気になってる。
それが叶いつつあって、とっても幸せです。
僕の脚が言うことを聞かなくなってしまって。
けっこうみんなが僕のこと心配してくれました。
本当に嬉しかったです。
でもね、Fenrirさん。
なんだかね、僕、変な気持ちになっちゃって。
どうしてか、分らないんですけど。
嫌だなって、思うようになっちゃったんです。
失礼ですよね。みんな優しい狼さんなのに、こんなこと言って。
でも僕、みんなと同じ、普通の狼でいることが目標だったのに。
こんなにパパみたいな特別な狼扱いされると、なんだか耳の後ろがくすぐったくなってきちゃって。
…ごめんなさい。今のは、パパとママには、言わないでください。
二匹が僕のこと、一番心配してくれているの、分っています。
もう一つ、変なことを言わせてください。
僕はね、あの夜の夢に、きっと別のものをもらったんです。
それが何かは、良くわからないけれど。
僕に授けられたのは、きっと言うことを聞かない脚なんかじゃない。”
“Fenrirさん。もう一度、聞かせてください。”
“僕は、Siriusという狼は。
貴方にとって、特別ですか?”
“僕は……。”
“……。”
……。
答えることが、できなかった。
仮に本心を口にできたとしても。
俺は目の前の狼に、面と向かってそうと伝えることはしなかっただろう。
浮かんだ言葉は、ごめんなさい。
一貫して、それだ。
俺は、変わらず、お前を想っているのだ。
だが、それなのに。
俺の沈黙から、その何かを読み取る前に。
“だったら、それだけで嬉しいです!!”
“え……?”
彼は、破顔して笑ったのだ。
“ありがとう。
そんなに泣いてくれて。僕を想ってくれて。”
“僕のことを助けてくれて。
救ってくれて。
大切にしてくれて。”
“ありがとうございます。Fenrirさん!”
僕は、大きくなったら。
きっと貴方のことを特別に想っている。
僕という狼になりたい。