92. はるばる
92. Beyond the woodland
「もうすぐ、か…?」
約束の日が訪れると、俺は自失するほど気を揉んで、客人の来訪を待ち惚けるだけの屍と化していた。
小馬鹿にしていた父親に合わせる顔はない。何も手に付かない、いや前脚につかない姿を見たらきっと笑うだろう。
こんな無意味な焦燥、Teusが二度目に逢いに来てくれたあの日以来だ。
どれほど後悔しただろうか。俺はあの神様に牙を剥き、泣かせるほど激しく拒絶したがために、彼との約束を心の底から信じることが出来ずにいたのだった。
もうすぐ、もうすぐ来てくれるかも知れない。ほら、あの音は、あの男のものだろうか?
…いいや、これではない。これは、俺が聞きたがったそれではない。
ひょっとしたら、気が変わって、やはり俺を優しい怪物として扱うことやめてしまったのかも。
そうだとしたら、もし二度と彼に会えないとしたら。
俺は、なんてことを。
そうやって、死に瀕した心で転げ回っていたのだ。
その足取りが、本当にTeusのものだと確信できたときの感動は、今でも忘れない。
この森に、誰かが逢いにやってくる。
俺はまたしても、あんなに心を躍らせてしまうのだろうか。
嫌だなあ。
そう言えば、Freyaは結局来てくれているのだろうか。
あれからSkaと頭を下げに訪ねたときは笑って頷いてくれたのだが、それが今日のいつ頃であるかとは俺の方からは伝えていない。
既にこの森に佇んでいて、時折耳の端に捉える誰かの気配がそれにあたるのか、気のせいであるのかすらも俺には分からないのだ。
そのような獲物がいたならば、俺は永久に捕まえることが叶わないと思った。
しかし、あいつに負けず劣らず、狼に慈悲深い神様だ。
いざと言う時は俺にすぐ知らせるため、彼を見守ってくれていると信じよう。
陽気は容赦なく身体を蝕むのに。
抗い難かった昼寝は、全く持って捗らない。
まだか、もう少しか…。
それとも、気が変わって…。
またそんな疑念に心を裂かれていた、その時だった。
「……来たっ!!」
伏せていた身を弾けるようにしてがばりと起こし、遥か東の方角を見据える。
これは…これは4つ足の獣のリズムだ。
それは牝馬のものではない。同じ走り方だが、こちらの方が地面に近い。
俺と同じイメージで、走っている。
それでいて、一歩だけ地面を離れるタイミングが遅くて、接地時間が長い脚がある。
その負荷は見過ごせないが、いずれ己で悟るだろう。
どちら側の脚かまでは分からないが、後ろ脚だ。
つまり、聞き慣れたSkaのものでもない。
これは、俺が初めて耳にする狼の足音だ。
「……?」
…しかし、彼とは何処かで一緒に走ったことがある。
目を瞑ると、そんな気もするのだ。
「…? 違う、そっちじゃないぞっ!?」
ぴくりとも動かず、呼吸すらも忘れてじっとその追跡を続けていた俺は、瞼の裏で鮮明に彼の位置を把握してしまえていた。
父親に言い聞かされてきたとおり、獣道に印されたマーキングを頼りに、まっすぐこちらに向かっていると思われたSiriusが、突然川上の方角へ進路を変えてしまったのだ。
まずい。臭いを嗅ぎ損ねたか?
その道は過って外れてしまうような枝分かれも無いはずだが。
このまま気付かず進んでしまうと、迷子になってしまうぞ…
気が付けば、俺は通じる筈のないテレパシーを声に出して送り始めていた。
「頼む、Sirius。此処は一端戻るのだ…おお、気が付いたのか?…そう、そうだっ!よしっ、凄いなっ!よくやった!!良い仔だぞ…!!」
遠吠えの一つぐらい、許されただろうに。それでもこの森に君臨する大狼か。
「頑張れSirius…!!良いぞ、もう少し。もうひと踏ん張りだ。すぐそこで、お前を待っているぞ…!!」
俺はそんな誇りさえも忘れ、全身全霊で跳ね回って、喜びを爆発させていたのだった。
「はぁ…はぁ……、あぁ。」
ちょっと、はしゃぎすぎて疲れたな…。
余りにも興奮してしまった身を再び横たえ、地面に休めた頭をぐるりと捩じって空を仰ぐ。
「……。」
どうしよう。
俺は彼が無事に辿り着いて、笑顔で走り寄る姿を目の当たりにして、
涙を流して崩れてしまうのではないかと思った。
まずい、想像してしまった。
本当に、耐えられない気がする。
迂闊に思い描いただけで、目の端から、つーっと涙が零れてしまったのだ。
何を涙もろくなっているのだ、俺は。
Teusが来てくれた時だって、泣くことは辛うじてしなかったではないか。
あの仔に、泣き顔を見せるつもりか?
良いか、今日は絶対に彼の前で涙を流すな。
俺は終始笑顔に努め、最高の思い出と共に彼を川の向こうへと送り届けてやる。
そうSkaとYonahに約束したのだ。
…ほら、もう来るのだぞ。
初めてにしては、中々のタイムスコアでは無いか。
父親に迫るものがあるぞ、帰ったら自慢してやるが良かろう。
いかんな。あれだけの時間がありながら、心の準備は全くできていない。
何をしている。今すぐに、その醜い泣き顔を止めるのだ。
涙が拭えないなら、草原に擦りつけろ。
何が何でも、これから目の当たりにする幸せな光景を脳裏に浮かべるな。
もうすぐそこの茂みに感じる同胞の気配に、俺は全身の毛皮をぶるぶるっと震わせて気持ちを切り替えようとした。
立ち止まって、鼻をひくつかせているらしい。
自然な探りだ。強くなった俺の臭いを、近くで感じているに違いない。
どうしよう、俺から、声を掛けようか。
そんなことを考えてしまったせいで、心臓がおかしくなって声が出ない。
これでは、まるで言い出せぬ想いの告白だ。
しかし、それに相応しい名前を有した狼であるな。
“し、…シリウ、ス……?”
尻尾をどのように形作ってやればよいか分からず、赤面して俯いてしまう。
雪原に転ぶ君の笑顔が脳裏で弾けて、耐えられない。
ガサガサッ……。
“やったー!!着いたぁーー!!!!“
“……あ、……あ、あぁ…あぁ……。”
俺は、何も守れなかった。
“こんにちはっ!!Fenrirさんっ!!!”
辿り着くまで、呼びかけてはならぬという厳格も。
一切の泣き顔をつくらず迎える約束も。
舌を垂らした満面の笑顔で鼻面に駆け寄って来る、
彼の前では、全てを忘れられた。
“……Fenrirさん?”
空を仰ぎ、大きな狼の顔を隠すので精一杯だったのだ。
“何でもない。”
“…お前をずっと、待っていた。”
すっかりと、春だ。
あいつの、そんな言葉を思い出す。