91. 春池のミミック 2
91. Spring Pool Mimic 2
良く分からないが、初めてのおつかい、なのだそうだ。
理解してやれなくもない話だ。Siriusは一匹で俺の元へ辿り着くことに意味があると考えているらしい。
自力で未開の森を駆ける力を身に着けたことの証明が、彼を一人前の狼とするのだ。
勇ましいではないか、お前の子供であるなら、きっとやり遂げるだろう。
しかし、胸を張って送り届ければ良いと考えるのは、待つ側の思考だとSkaは言うのだ。
とても父親には、彼の言い分を誇らしいと思って聞き入れることが出来ない。
“義足の調子が心配、とかではないんです…。”
毛皮のない後右脚は、今や完璧にSiriusの四肢として機能していると言って良かった。
関節を伴わないただの棒切れで、思い描いた機敏な動きが叶う筈がないという周囲の心配をよそに、Siriusだけは信じず、諦めることをしなかったのだ。
彼が不整地を走れる確信を持つに至ったきっかけとは、まさに奇跡だった。
神様の祝福を受けた義足に、感覚が芽生え始めたのだ。
「Siriusが…毛繕いしてる!」
Teusの報告によれば、それは最近のことで、Siriusが義足を自身の身体の一部として扱いはじめた何よりの証左だと言う。
始めはそれが、道具による感覚の延長を意味するとは思えなかったものの、脚の付け根が受け取る地面の衝撃よりも先に、軽やかに接地をこなす様子を目の当たりにして、本人に訪ねるまでも無いと納得させられた。
驚くべきことだと思う。彼の努力の賜物に違いない。
“ですので、こう言うと過保護だって思われるかもしれませんけど。仮にSiriusが他の子供たちと同じ境遇にあったとしても、一匹で行かせるのはちょっと反対です…。”
まあ群れの中にいながら、一匹で行動する道理はないものな。
“しかし、お前の優秀な子供たちもまた、あいつの遣いとして、人間の世界を暗躍するのを楽しみにしていたではないか。”
“そうですけどお…”
“その足掛かりとして、此方に寄越すと考えれば良かろう。”
“でも…でもぉ…。”
狼は口が大きい。それでも膨れっ面というものはあって、Skaはまさに今そんな表情で瞳を潤ませていた。
まるで世界が終わったかのような顔で主人を困らせるよな、お前。
“それでも万が一何かあったらすぐにでも駆け付けたいのが、親心ってもんじゃないですかぁ!”
“うるさっ…あまりでかい声を出すな……。”
お前はTeusか。耳元で甲高い声で叫びおって。
あいつに聞こえていても知らぬぞ。計画をお前が台無しにしてどうするのだ。
“ああっ…ごめんなさい…僕としたことが…。”
“はじめっから、キャンキャンこいつらに吠えてたけどな。”
“……。”
ボスの狼狽の嵐に、部下たちも困惑気味だ。
“しかしですね…僕には名案があります。”
彼はぴっと背筋を伸ばし、小声で自慢げに計画の内を披露する。
“Siriusが気づかぬよう彼を尾行させ、いざとなったら救助できるよう、増援部隊を結成すれば良いんです!”
そこに僕が居合わせちゃうと、最初から付けてたのかってSiriusに疑われてしまいますからね。あの仔とあまり面識のない面子を揃えました。
皆、僕の知覚外から追跡が出来るかどうか、テストしてやってたところなんです。
選りすぐりの4匹です、僕には到底及びませんが、何度も人間の皆様のお役に立って来ている精鋭ですよ。
とは言え、こうした任務は慣れていないみたいで、まだまだですけどね。これじゃあSiriusだって簡単に勘づいてばれてしまいます。当日までに間に合うよう、びしばし鍛えてやらないと…。
“あだっ…何するんですかFenrirさんっ!?”
“すまん、つい。”
鼻を鳴らして偉そうにするので我慢ならず、俺は肉球でこいつの頭を叩いてしまった。
もう、本当に関わらなければ良かったと後悔している。
“ひとまず、その精鋭部隊の任務を今すぐ解け。必要ない。”
お前たち、もう帰って良いぞ。
“ええっ、何でですか!?”
言っておきますけれど、いざと言う時にFenrirさんが駆け付けるというのは無しですよ?
彼らは偶々森の獣道を通りかかった優しい狼さんたちに過ぎません。
そういう設定だからこそ、Siriusの自尊心を傷付けずに済むんですから。
もし貴方が迎えに行ったり、僕や妻がこっそり様子を監視していたと知ったら、あの仔は不貞腐れるどころではありません!家でしちゃうかも知れない!
“うーむ…。”
あの森なら、俺の庭も同然だから、Siriusの身に何が起きようと何とか出来ると一蹴するつもりだったが、そうも行かぬのか…。
俺は、とうとう折れた。
“……分かった。俺から彼女に頼んでおく。”
頬を地面にぺたりと広げ、こんな気温でも溶けてしまいそうだと腹這いになる。
“彼女って…どなたですか?”
“…Freyaだ。皆まで言わせるな。”
“ほ、ほんとですかっ!?”
同胞とは言えど、俺の縄張りで勝手にこそこそされるのも敵わんからな。
Freyaであれば、まあ信用できる。お前も知っているだろうが、彼女もTeusと似た力を有した神様だ。
風となって狼を見守ることなど、造作もない。
以前この森の中で姿を現したときは、俺ですらその前触れに気が付かなかった。
きっとSiriusも、彼女に救われるまで、その存在を嗅ぎ取れないだろうよ。
“そっかあ、Freyaさんなら安心ですね!”
Skaは名案だと尻尾を回すと、難渋に曇った顔をぱっと輝かせた。
“それじゃあ、お願いしても良いですか?あ、Teus様には内緒にしときます。”
“そうして貰えると助かる。色々と面倒だろうしな。”
…彼女は、今どこに?
“恐らくお屋敷にいらっしゃると思います。”
ご自身からは外出なさらないようでして。Teus様がいなくて、寂しがっていると思います。
“そ、そうか…。では、掛け合ってみるとしよう。”
しまったな。彼女は今、歩ける状態にあるのだろうか。
そうでなくとも、Teusがいない状態で、Vesuvaの主を短時間でも不在にさせて良いものか…。
代替案をSkaに提示しておきながら、俺は彼女を頼ることは得策ではないような気がしてきた。
“はーあ…。”
Teusならば、どうやってこの難題に対処するだろうか。
そんな憂いを他所に、Skaは自分に相談して良かったと上機嫌だ。
そうと決まれば、こうしていられません。一刻も早くFreyaの元へと連れて行きたいと、足踏みで俺に立ちあがるよう急かす。
“う、うむ…。”
彼が帰還を果たすまで、返事を待って貰えそうにはない。
俺は木漏れ日をぼんやりと仰ぎ、もうすぐ舌を垂らして此方にやって来る彼を洞穴で迎える瞬間を想像する。
確かに、あの仔には今度こそ一匹でやり遂げたのだと言う体験が必要なのかも知れなかった。
そしてそれを陰ながら支えたいと隣で喚くSkaのもどかしさも、きっとその一回で吹き飛ぶのだろう。
約束は、果たされるだけで良いのだ。
そう、俺は待ち受ける側として、邂逅を果たさねばならない。
何の気兼ねもなく訪れることを、彼が許されていると感じるために。
俺はSiriusを満足させなくてはならないことに気が付いたのだ。
“Skaよ。今度はこちらが相談を持ち掛けたいのだが。”
“はい、何でしょうか…?”
“俺は…あいつをどうやって持て成せば良いだろうか。”
今度は俺が、Skaに代わって狼狽える番になりそうなのだ。
“どうって言われましても…僕をはじめて迎えて下さったときと同じように、相手して下されば良いですよ。”
きっとあいつは、Fenrirさんとお話できるだけで、大喜びです。
“果たしてそうか?”
あいつが好物としているかは知らぬが、生憎リンゴは切らしているのだ。
実を付けるにしても、時期的にまだ少し早過ぎる。用意してやれそうにない。
“そればっかりは仕方ありませんよ。一緒にお肉でも、食べてあげて下さい。”
“……。”
お前は、忘れてしまったのか?
大狼を目の当たりにして、自分がどれだけ誇りを傷つけられたのかを。
“俺は、お前達と共に狩りに興じることはしない。”
“あっ……。”
仮にSiriusが、脚を奪われなかったとしても、それは同じことだ。
“すみませんでした…Fenrirさん…。”
もう良い。
俺の狩りなど、もとよりSiriusに披露できるものではないのだ。
“できるだろうか、この俺に…。”
それは、彼が洞穴まで辿り着くことよりも、遥かに難しいことのように思えて仕方がない。
普通の大きさの狼の相手をする恐ろしさに本格的に焦りだした俺は、道中の彼の言葉が一切耳に入って来ないほど、口の中を血の味で一杯にしたのだった。