91. 春池のミミック
91. Spring Pool Mimic
これは、Teusがアースガルズへと牝馬を走らせてから数日後の出来事だ。
狼達だけで繰り広げらた、ちょっとした茶番に、付き合ってもらいたい。
骨休めには、ちょうど良いだろう。
“くぁぁー……。”
春の盛りに時折姿を見せる睡魔は、眠りの質を返って酷いものにする。
顎が外れそうになるぐらい大きな欠伸をかましては、昼過ぎまで時間を食い潰すほど俺はだらけ切っていた。
長の遊説の間も、狼たちによる自主的な罠探しは続いた。
ヴァナヘイム開門付近の捜査を新入隊員に任せ、Ska率いる精鋭部隊はヴァン川から下流へ、俺は上流から旧拠点へと続く山麓までを調べ上げた。
不足の事態に彼の不在は大きな痛手となり得たが、そのときはFreyaを頼る手筈となっていた。狼の言葉も読み取れる彼女であれば、夫に代わって適切な助言を与える存在として信用できる。
実際Freyaは、Skaのみならず、群れ仲間からの信頼も厚かった。
これは普段、TeusがSkaとその家族に対してのみ受けていた懐きであったが、彼女はあらゆる狼たちからその愛情を享受させられていたのだ。
労いの言葉をかけられる彼らの頭は、これでもかと耳の間を広げ、そこに手を乗せるよう媚びている。
傍らで尾を嬉しそうに振っている別の狼は、両手を独占している仲間に静かに牙を剥く始末だ。
流石は大狼に育てられた仔、と言ったところか。
この夫婦は、恐ろしい才を持っている。
幸いなことに、Lokiが仕組んだと思われる罠の手掛かりは発見に至らなかった。
嘗ての狼狩りの名残と思われる、錆びきったトラバサミの破片が数カ所で見つかったが、作動はしておらず、脅威とは見做されなかった。
埋めて放っておいても良いぐらいだったが、念のため回収し、後で一応彼に報告するつもりではある。これでも成果は成果だ。
“ふう…思ったよりも早く済んだな。”
彼の帰還を前に、ひと段落が着いた。素晴らしいはたらきぶりであったな。
常日頃よりエリート狼が村人に力を貸していたのだと自慢げに語っていたが、任務遂行への熱意を目の当たりにすると、確かにそれだけのことはある。
“お前達が再び、いわゆる番狼として召集される日は来るのだろうかな。”
“わかりません…Teus様が承諾されるのであれば、僕らはいつだってお力になりたいのですが。”
“そうか。…まだ村人たちと、縁を切った訳ではないものな。”
“ええ、勿論です!”
“それは…Teus様とFreyaさんも、同じことだと思うのですが。”
“辛抱しろ、ようやく得られた平穏だ。二人の門出を、陰ながら応援してやろうではないか。”
“はい、僕も…まだ、お役に立ちたいです。”
ああ、期待しておるぞ。
Skaの並外れた統制により勝手な探検を慎んできた群れも、日に日に広がっていく活動拠点に己の臭いを擦りつけ、縄張り意識を強いものにしていた。
狼達による生態系の修復は、このようにして瞬く間に進んでいったのだ。
案外放っておかれても、彼らは逞しく生き抜いて行く。
伊達に祖霊が幾千年を生きちゃいない。
今日は、何の任務も割り当てず、ただふらっと顔を出しに来ている。
嘗てのように、毎日水を飲みに来ては、自分以外の誰かを見かけたりはしないかと対岸を窺う癖がついてしまったのだ。
何の気なしに水面を覗いてみれば、その表情には彼の面影がない。
俺も、もうすぐ年をとるのだ。
久しぶりだな。あいつさえいなければ、この檻はこんなにも静かなのだ。
今だけはヴァン川の畔で気を緩め、尋常ではない眠気に平伏しても、許されるだろう。
…そう思っていたのに。来るんじゃなかった。
けたたましい鳴き声に乗せて、彼らのやり取りが聞こえてくる。
“お前達っ!!そんなんで気付かれずにFenrirさんの洞穴まで辿り着けると思ってるのかっ!?”
“すっ、すいませんボス…”
“でも、俺らだって森の中に入ったことがないんすよ…?”
“そうですよ、まだ早過ぎますって…。”
“ほーう、口答えか。随分と偉くなったものだなっ!”
“ひぃいっ…!”
あー。聞かぬふりがしたい。
首を突っ込むべきではないよな。もう勝手にやっていろ。
…とも行かぬよなあ。
“おい、何してる。”
“ああっ!?何だお前は、今忙し…!”
“ってFenrirさんっ!?なんで此処にっ!?”
“…お前呼ばわりか、随分と偉くなったものだな。”
“うぁぁっ!!ごめんなさいぃっ!!”
“……。”
群れの長の地位を揺るがしてはならない。
口を真一文字に結び、怒りを面に出さぬので俺は精一杯だったのだ。
“…という訳でして。こいつらに護衛の訓練をさせてたんです。”
“……あほか、お前。”
思わず一蹴してしまったSkaの目論見とは、権力を振るった子煩悩そのものだった。
どうやら、彼の可愛い末っ子が、俺の元へと逢いに行く約束を果たすのだと息巻いているらしい。
先日、Yonahの反対を押し切ってヴァナヘイム門前付近を兄弟たちと歩かせたことが、とても自信になったようなのだ。
“ね、良いよねパパ? だって僕、もう走れるもん!”
まだ遠い未来のような気がしていたのだが、遂にその日が来てしまったか。
素直に喜ばしいことだが、SkaとYonahに負けないぐらいに、いざとなると俺も心配な気持ちは同じだ。
迷い込む者を殺す冬は彼方へ遠ざかったとはいえ、彼には死に瀕するほど、辛い思いをさせたのだから。
…その名を口にするだけで、俺はもう春なんてどうでも良くなって。
夜を徹して泣き叫び、傷口を掻き毟りたい衝動に抗えなくなる。
彼の後右脚は、それを思い出させるのに十分であったのだ。
“…そうか。Siriusが。”
相変わらず、俺はその名を呼びながら、屈託のない笑顔を浮かべるあの若狼とは別の面影を浮かべたがる。
“感慨深いです、なんだか。”
“そうだな…。”
“ちょっと寂しくすら、あるんです。”
“無論、巣立つ訳ではあるまい?”
“そうですね。あの仔が望むなら、止めませんが…。彼女はどう言うか…。”
彼が率いる群れは、人間の手を加えられておりやや特殊だが、多くの場合、群れの中でも力を十分につけた若者は、新たな群れを作り上げるため、一匹狼となる。
番を見出し、子供を設けるまでの辛抱だが、その旅路は狼であっても過酷な道のりだ。
Skaの重たい溜息を聞いていると、こっちまで保護者の気分になりそうでいけない。
“しかし、だからと言って護衛をつけるのはやり過ぎではないか…。”
“何を言ってるんですか!Fenrirさん!”
彼は噛みつくように切り返す。
“あの仔は初めてあの森の中へと脚を踏み入れるんですよ!?”
“お前と一緒に来れば良い話だろうが。何故わざわざ他の狼たちまで来させようとする。”
言った筈だ、此方へ勝手に狼を連れて来させないでくれと。
俺はお前達の群れと行動を共にはしているが、慣れ合うことは互いのために慎むべきなのだ。
人間どもの不毛な争いごとに巻き込まれ、これ以上の犠牲を産まないためにな。
Teusを好いてやってるのは有難いが、関わり過ぎは身を滅ぼす。
“あの…そこが一番の問題でして。”
“Siriusのやつ、一匹でFenrirさんのお家へ行きたいって聞かないんですよお!!”
Skaは今日一番の溜め息を吐くと、
ああ、どうしようどうしようとその場を回って俺を狼狽させたのだった。