89. 雪解け道 5
89. Thawing Road 5
「お久しぶりです、Fenrir。」
その女神は夫に抱きかかえられたまま、透き通るような両腕を俺のほうに向けて伸ばした。
「…そのようだ。」
いつぶりだったであろうか。
朧げな記憶の沼を辿ると、靄のかかった景色の向こうで、彼女の叫ぶ姿が思い出された。
身に覚えがなくとも、俺は俺として、邂逅を果たしていると言うことになる。
しかし、それはつまり彼女の会いたがっている大狼というのは、この大狼ではないということでもあるような気がした。
“……?”
首を傾げ、狼の言葉で語り掛けてくるので、俺はますますその疑いを強くする。
……。
抱擁を、求められているようだ。
こいつが膝をつく気はないようなので、こちらが頭を擡げてやらねばなるまい。
“こうか?”
彼女の両手が頬の毛皮に触れるよう、恐る恐る鼻先を近づけてやる。
逸らした視線の端で、彼女の表情が和らいだように見えた。
鼻先に、自分のそれをつけて、微笑む。
これで、良いらしい。
Teusにはしたことがないような所作だった。それをどうして今、彼女に向ってしてやろうという気になったのかは、自分でも分からない。
彼の真似事をしたがっただけなのか。その割には、こちらからかけるべき、気の利いた言葉が浮かんでこない。
ただ、彼女はそういう器なのかな、という気がふとしたのだ。
しばらく、互いの記憶を確かめあっていると、黙ってそれを見守っていたTeusが口を開いた。
「ええと…どこまで話をしていたんだっけ、Fenrir?」
「ああ、そうであったな。」
再び組んだ両前足に顔を預けると、俺は礼儀正しくゆっくりと彼女から視線を外す。
先までのTeusの話を汲み取ってやるのなら、彼女が本来継ぐべき地位を捨てると言い出してしまったがために、ヴァン神族は烏合の衆と成り果ててしまっている、ということで間違いなさそうだ。
どうしてFreyaはヴァン神族の長となることを拒むのだろう。興味はないが、Teusはきっとそんな話をするつもりだったに違いない。
それで溜息をつき、噂話をしていたら当の本人が来てしまった訳だ。
まあ、もう無理だろうな。
ここは、ある程度は承知したと示して、会話を飛躍させる必要がありそうだな。
「…お前がヴァン神族の一員として迎えられるにあたり与えられた、その余りある地位についてだ。」
お前の今回の処遇を考えるに際し、彼らはちょうど良い地位をお前に用意する機会が転がり込んだと捉えた。
一つは、Freyaとの婚約が決まったお前を一族の王婿として迎え上げ、神族間の国際問題に発展させないことを狙ったものだ。
そしてもう一つ、ダイラスの意思を継がせる意図を込めているのではとお前は言う。
それは、長老様の地位をお前が継承することをも意味しかねないが。
誤解を招かぬよう、お前はそれを詳しく聞かせようとしているのではなかったか。
「…そう、そうだったね!そういう話をしてるところだった。」
Teusは俺の理解した筋道に一切の誤りがないと付け加えると、彼女を恭しくその場に座らせて、話を続けた。
俺もはじめ、遺言の話を聞いたときは驚いたよ。
ヴァン族を率いる責務を、形だけでも負うことになるなんて。
いや、流石に彼の長老としての位までも受け取るつもりはないよ?
そこは、神族どうして勝手にしていてくれって感じだし。
これ以上面倒ごとに関わっている暇もないからさ。
ただ、ゴルトさんにはとてもお世話になったから…。
彼が溺愛してきた狼達の面倒を見ることで、少しでも浮かばれて欲しい。
そんな気持ちで、いっぱいなんだ。
本当であれば、Freyaと一緒に長老様のお屋敷に住み込むことになるのかもね。Skaたちの巣穴はFenrirも知っての通り、あの裏山に広がっているから。
ただ、一応は俺もヴァナヘイムからは立ち退かなくてはならない。
それが権力を手中に収めようとする身の程知らずへの、市民による鉄槌、追放なのだから。
Vesuvaは、ヴァナヘイムの一部となったのではないか、という話はあるけれど。
真の狙いは、大狼に対する安全弁を、ヴァン川の近くに置きたかったからなのだと思っている。
きっと彼らは、まだFenrirが俺によって手綱を握られているものだと思っている。その暴走を止められなくなった時に、被害を受けるのは、もう自分たちでありたくないという意思表示でもあるんだ。
それを、受け入れた訳なんだ。
有事の際に大狼の管理者に自己責任を取らせるため、という目的は、理には適っている。
悔しいけどね。まだ、分かって貰えないのは。
けど、構わないよ。寧ろ此処まで君を呼びやすくなったんだ。
何れ、誰も此処に大狼がいても気にしなくなるよ。ね?Fenrir。
「それに此処は、俺とFreyaにとってだけではなくて、狼たちにとっても居心地が良いと感じている場所なんだ。」
ねえ、Fenrir。信じられないかも知れないけれど、俺はSkaたちを此処へ招いたつもりは無いんだよ。
日に日に空き家の陰に狼の視線を感じるようになってきて。気が付いたら、こんなことになってた。
ヴァン族は、俺がFenrirを含めた狼たちを監視することを望んでいるらしい。
そして俺は、長老様の意志を継ぐつもりでいる。
けれど、俺についていくかどうかは、狼たちが決めることだよね?
これだけ酷いことをしてきた俺達に対して、袂を分かっても逞しく生きるだろう。
俺にその資格と、覚悟があったとしても。これからどう人間と関わっていくかは、彼らが選ぶべきだ。
「でも、みんな此処にいる。」
「これは…、神様でも起こせなかった奇跡だ。」
Teusは胸元に下げてあった木製の牙飾りを取り出した。
「それは…?」
これもまた、霞んでしまいそうな記憶だ。
お前はそれを、Siriusの脚を拵えている最中に削っていたな。
「Fenrir。俺さ、口笛が吹けないんだ。長老様みたいに。」
それは上手に鳴らして、真の主人に相応しい出で立ちで、狼の名前を朗々と呼び上げるんだ。
行こうか、Skyline。
彼からその名を直接聞いたとき、心の底から震えた。
「俺も…あの方のように、なりたいんだ。」
そうか。
それは、俺も聞いてみたかったものだな。
「……いいや、違うか。」
「越えなくちゃ、ならない。」
彼は乾いた唇を舐めると、笛の先にそっと這わせて、目を閉じた。
“……?”
音のようなものは、残念ながら聞こえない。
しかし春風が、耳を戦ぐようだ。
お前が継ぐと決意したその日には、その風が冷たく雪原を撫でたに違いない。
“ウォオオオオオオーーーーーー……”
“ワゥッ…ワゥゥーーーーーー”
“アゥォオオオオーーーーーン……”
何と言うことだ。
Vesuvaに潜む狼達は皆、共鳴してしまったではないか。
隣りでは、Skaが一際気高く鼻先を掲げている。
“アァウウオオオォォォォーーーーー……。”
ああ。喉元をくすぐられ、思わず自分までもが、天を仰ぎそうになる。
…俺も、加わることを、許されるのか?
“……。”
だがしかし、此処までのようだ。
「Fenrir…?どうしたの?」
俺はその合唱に続くことを諦め、徐に立ち上がって彼を驚かせた。
間が悪いと言えなくもないが、こんなものだろう。
話したいことは山積しているが、続きはまたの機会に譲るとしよう。
「客人のようだ。」
「えっ?誰か、こっちに来てるの?」
誰かまでは分からぬが、人間であるとだけは伝えておこう。
きっとお前に話があるのだ。流石に俺がいると、色々とまずいな。
「今日はここら辺で、お暇するとしよう。」
「別に、もう少しいてくれても良いのに…。」
「言葉面だけを並べるな。不快だ。」
「…ごめん。」
毛皮をぶるぶるっと震わせると、Skaに一瞥をくれて挨拶とする。
“そういうことだ。また会おうぞ。群れの長よ。”
“はい…お元気で。Fenrirさん。”
彼らに尾を向け、ヴァン川の潺に耳を澄ませる。
やはり春は苦手だ。
思わず、温かな空気に蕩けてしまったではないか。
しかし、安心した。
お前が望まれた通りに形だけを継ぐと言うのであれば、俺は止めただろう。
だが、意思があると言うのなら。
ヴァン族の英雄を越えて狼を守ろうと言うのなら。
今は大狼の意志を薄め、黙っていようではないか。
「素晴らしい音色であった。」
「次は、俺も迎えてくれ。」
その時は、主と群れを守るため、力になる。