88. 冬の陰り 4
88. Crud Snow 4
Sirius
その名を思い浮かべるだけで、どれだけ心を奪われて手が付かなくなっただろうか。
増してや、口にするなど。とても俺には許されることではない。
何故なら、貴方は。
“Siriusは……。”
私の、牙で。
“死んだ……。”
貴方は、死んだ。
この世界から、姿を消しただけではなく。
私の内に宿っていてくれた、あの僅かな温もりさえも。
もう、感じられなくなってしまったのだ。
青い世界から見守ってくれている気がした。
傍らにいるような気さえした。
それだけで、私は沢山の日々を生かされた。
そして耐え忍んだからこそ、あの日を迎えることが出来た。
私は奇跡を差し伸べられたのだ。
これは、もうすぐ目覚める夢。
そう言い聞かせなければ、おかしくなってしまいそうだ。
溢れる愛を、一人の人間と、狼たちに与えられるまでになった。
幸せに、侵される。
すべて、貴方がいてくれたから。
貴方が、私にその存在を受け渡してくれたから。
ならば、私は代わりたかったのです。
私が受け取ったすべてを、貴方にも感じて欲しかった。
これだけの幸せの沼に、貴方も浸って欲しかった。
それなのに。
それなのに。
“Siriusはぁっ……”
幾ら遠吠えを重ねても。
耳の奥で僅かに反響する、聞いたことのない貴方の遠吠えは、いつしか消え去った。
私の奥深い眠りのその奥から、同じ音色が帰って来ることはなかったのだ。
“Siriusは……死んだのだあぁっ……!!”
零れた涙が痛くて、きつく目を瞑る。
すると毛皮を撫でる風は、少し温かくていけない。
“うぁぁ……あぁ…うあ゛あ゛あぁぁぁ……。”
こんな、こんな風は、冬に相応しくない。
“どうして……どうしていつも私を、置いて行くのですかっ…?”
もっと、貴方の毛皮を感じさせて下さい。
“シリウスゥゥ……。”
“……。”
“Fenrirさん。”
彼の名に怯え、平伏した俺を見て、
Skaは戸惑うどころか、寧ろにっこりと微笑んだ。
“そんなことは、ないですよ。”
“Siriusは、生きています。”
……?
“貴方と、それからTeus様の努力は、結実しました。”
“ほら、見てください。”
“ウッフ……!ウッフ……!!”
涙で淀む景色の奥に、それは小さい狼の群れの影が映る。
それは、少しずつ、少しずつ。
懸命に此方へと近づいているように見えた。
“う、うぅ……”
“うそだぁっ…うそだああ……”
“あああぁぁぁ……”
覚束ない足取りで雪上を駆ける一匹を、傍らで家族が鼻先を突き合いながら支えている。
その群れを率いていたのは、Skaに姿を似せた、あの狼だったのだ。
“今っ…いまむかうからっ…!!”
堪らず俺は、走り出した。
一歩でも、彼に苦難の道を歩ませたくなかったのだ。
すぐに、迎えに行く。
大狼の蠢く姿を認めたその影は、耳をぴんと立てて静止する。
それから大喜びで駆け出したと思うと、その場で体制を崩し、盛大に転んでしまったようだ。
ああ、急かして済まない。
じっくりと、お前の歩みを見守っておくべきだったのかもな。
しかし、もう我慢がならないのだ。
“シリウスっ…!!シリウスっ……!!”
“シリウスゥぅっ…!!!!”
Sirius。
お前に、逢いたい。
“Fenrir……さん……!!”
その声は若く、容易に貴方の幼少時代を思い浮かべることが叶った。
“うわぁっ!?”
母狼に身体を何とか起こして貰えたSiriusは、今度はつんのめって鼻面を雪の中へと突っ込んで倒れてしまう。
涙で盲目と化した俺もまた、殆ど前転するようにして、彼に鼻先を近づけ、臭いを嗅いだ。
“やっと…!あえた!”
“ああっ……此処に、此処にいるぞっ……Siriusっ……!!”
ああ、Siriusだ。
Siriusが……
生きている。
Siriusが、生きている。
“……?”
そして俺は、二度も驚かされるような光景を目の当たりにさせられたのだ。
“……Sirius、お前…その脚…?”
我が目を疑うとは、このことだ。
なんと、右脚が、あったのだ。
俺が喰いちぎったはずの、右脚が。
“な、なんで…どうして…こんなことが…?”
いや、それは毛皮に覆われてはおらず、凡そ狼の四肢とはかけ離れている。
しかしそれは、遠目からは気づかぬほどに、彼の身体の一部として溶け込んでいたのだ。
“ま、まさかっ…?”
これは……木片?
“雪が、解けたんです。”
“……?”
すぐ後ろを追いかけてきたSkaは、俺に報告すべきことがあると口を挟んだ。
“Teus様が昔住んでいらっしゃったお家、大雪で長いこと埋もれてしまっていたんですけれど、ようやく掘り起こせるぐらいまでになったので、雪掻きをしたんです。”
“お家は重さに耐えきれず、潰れてしまっていました。”
“……残念ながら、Fenrirさんの、木像も。”
“そしたらTeus様が、代わりに役立てられないかって。”
“それで、Siriusに、新しい脚を与えて下さったんです。”
Teusが……?
“まだちょっと、慣れてないみたいなんですが。曲げることもできないので…。
でもFenrirさん。信じられないかもしれませんが、ぴったりだったんです!
この仔の為に彫られたんじゃないかって思うほど。それって凄いことだと思いませんか?“
“…だから、僕からもお礼を言わせてください。Fenrirさん。”
“ありがとうございます。”
“Siriusに、新たな命を吹き込んでくれて。”
そして、俺が語り尽くすべき相手との対話のために、押し黙ってくれる。
“Fenrir…さん。”
Siriusは雪の上に何とか四肢を踏ん張ると、今度こそ目の前にその姿を晒した。
“必ず…僕だけの力で、貴方の元へ向かいます。”
“だから、もう少しだけ、待っていてくれませんか。”
“その時は…僕にも、パパみたいな冒険をさせて下さい。”
“遊びに行くときは、ちゃんと遠吠えしてから、行きますね!”
“ああ……”
必ず来い。
今度は、俺が貴方を待ち受けよう。
雪が溶けたなら。
冬が終わったなら。
その夢は、きっと叶う。
“…ありがとう。Sirius。”