88. 冬の陰り 3
88. Crud Snow 3
彼のことを本気で怒らせてしまったのだと気付いた頃には、もう遅かった。
Teusが退行するような泣き顔を見せたのは初めてのことで、俺はどれだけ大きなその予兆を見落としていたと言うのだろう。
彼らの表情は狼のそれとは似ていなくて、思うに俺は、人間とかけ離れていたに違いない。
それも誤りか。Skaがいたら、きっと機微の深いところまだ触れていたことだろう。
つまりは、人間の伴侶である資格も無いということだ。
目を真っ赤に腫らし、それでいて殴りかかろうとするような、一切の気概の無かったTeusは、雪を蹴散らしながら、ずいずいと俺の方へと歩み寄ってきた。
それは鼻に皺を寄せ、牙を晒そうか迷いつつも、支配的な姿勢を崩さないようだと翻訳された。
共通の言語として、嗅覚にそう触れてきたのだ。
「もう良いよっ…!そっちがその気だったら、俺にも考えがある!」
血反吐でも吐きそうな勢いだ。まるで強者に向かう、哀れな仔狼のよう。
「やっぱり君には、俺の言葉なんかじゃ届かないんだ!」
「…や、やめろ…。悪かった…。」
半歩も下がることを忘れて、そう弱々しく漏らすので精一杯だった。
咄嗟の勇気に、俺はいつだって怯んだ。
何か、何かを企んでいる。
「一緒に行こう!!Fenrirっ!!」
見えない毛皮を逆立て、そう叫ぶと。
彼は、鼻面に触れるよう、右手をぐいと突き出したのだ。
「……!?」
何の前触れも無かった。
俺には周囲を取り巻く光の筋も見えず、
ただ、粉雪が舞うほどの微風に身体を煽られたかと思うと、
「うぁぁっ…!?うわぁぁぁぁぁぁぁ……!!」
世界は、消えたのだ。
「うっ…ぶ…はぁっ……はぁっ……はぁ…。」
体験したことの無かった気持ちの悪さに、吐き気が込み上げる。
脳を揺さぶられ、腸を生手で握られる感覚。
既の所で今朝喰らった鹿の腿肉を呑み込む。
危うく出て来るところだった。もう喉元まで
俺は、四肢が嫌いな食べ物になってしまった。胃袋が、消化を拒んでいるような気がする。
しゃぶりつくして、玩具にするのが大好きだったのに、当分は目を瞑って残さず平らげる他無さそうだった。
「ぜぇ……ぜぇ…はぁっ…あぁ……。」
それで、ここは何処だ?
辛うじて、俺は転送の術式に嵌められたのだとわかった。
こんなものを発動するとは、余程あいつは激昂していたと見える。
きっと彼自身も不本意だったに違いないから、恨む気持ちなんて微塵もないが。
どうしても、あの大狼の記憶が脳裏にちらつく。
「まさか…。」
もしや、俺は追放されたのではないか。
いや、それはない。Vesuvaはもう消滅したはずだ。
でも、もしTeusが嘗ての友の意志を継いだとして、この大狼に心から愛想を尽かしてしまったのだったら。
俺は、この森ですらない果てに佇んでいるのではないか?
あの表情は、もしかしたら、それすらも躊躇わないような覚悟を宿しているようにも思えた。
「あぁ……そ、そんな…。」
どうしよう。
俺は…本当に、Teusに別れを…
そんな、
俺は、そんなつもりでいたんじゃなくて。
ただ、一生この悲劇を、このまま覚えていたかっただけなのに。
「Te…Teus…。」
嘘だ。
彼は俺と一緒に世界の果てまで来てくれないだなんて。
番と、伴侶たる狼たちと幸せに過ごすことを選んでしまったなんて。
もう、俺は、走っても走っても、お前に逢いに行くことができないじゃないか。
あの二人と同じように、お前は、俺の中で幸せな思い出になるしかないのか?
この流刑地で、お前を想いながら。
自ら命を絶てるまで、誰かに救われるのを待ち続ける。
あの惨めな日々を、もう一度。
「あ……あ、あぁ……」
せめて地続きな世界線の上に立っていることを確かめたくて、俺は冷たい地面に恐る恐る垂らす。
「……?」
余程、目の前が真っ暗に塗りつぶされていたに違いない。
おれはようやく、目の前の雪原に、一匹の狼が座っていることに気が付いた。
“あ、Fenrirさんだ。こんにちは!”
「……え?」
利口そうに首を傾げ、尾をぱたぱたと振って微笑んでいる。
「……Ska?」
“はい、お久しぶりです!!お元気でしたか?”
全く状況が呑み込めず、俺は人間の言葉を使っていたことに気が付かないほどに狼狽えていた。
“ど、どうしてお前が此処にいる……?”
“僕ですか? 僕はTeus様と待ち合わせしてるところなんですけど。”
“Teusと…だと?”
“はい、Fenrirさんご存知ないですか?多分もうすぐ来られると思うんです。”
“え…あ…いや…。”
まさか…。
あいつ、俺と一緒に此処へ来るつもりだったのではないか?
“ああ、先まで一緒にいたのだが…。”
“良かった!じゃあきっと直会えますね!”
その予感は、力が抜けそうになるほど素晴らしいものだった。
ああ、そうだ。こいつの話からして間違いない。
あいつは無理やり、Skaに俺を引き合わせようとしていたのだ。
良かった。
俺は、除け者とされたのでは無かったのだ。
ほっと胸を撫で下ろすと、Skaと再び会うことを余儀なくされたことなど、小さいことのように思えてくる。
心の準備が出来ていないことも、今は幸いした。
しかし、それでは腑に落ちない。
何故なら、俺は全容の把握とまでは至らずとも、Teus自身が世界を渡り歩く力を失っていることを知っているからだ。
Teusがもし、俺を攫って此処まで移動するつもりであったのなら、それは彼の力の及ぶ範囲から外れている。
こうして置いてけぼりになるのは、彼自身が良く知っているはずなのだ。
俺の眼の届かぬ何処かで、覚醒により力を取り戻したのであれば、話は別だが。
或いは、TeusがSkaへと伝えた約束とは、方便であると。
元より、あいつは俺だけを彼に引き合わせるつもりだった。
きっと俺が意地でもヴァナヘイムの狼たちの前に姿を現さないと既に悟っていて、こうして不可抗力な手段を使って面会の機会を設けた。
その可能性のほうが有力である。
人間のいない世界で、対話が為されることを期待している。
“やっぱり君には、俺の言葉なんかじゃ届かないんだ!”
その言葉は、そういう意味だったのだ。
…だが、こんな邂逅が為されて良いのか。
“それじゃあ、Teus様が来るまで待ってましょうか。Fenrirさん。”
“そう、だな…。”
“Fenrirさんのお家、暫く行けてないんですが、また遊びに行きますね。”
“あ、ああ……お前が望むのなら…。”
良いはずがない。
許されて良いはずがないのだ。
俺がお前の息子に、何をしたか忘れたのか?
どうして何事も無かったかのように。
“やった!ありがとうございます!楽しみだなあ…”
そうやって話しかけて来る?
“もうすぐ、そちらまで連れて行けると思うんです。”
“…?”
連れて、来る…?
聞いていないぞ、そんな話は。
“でも、Teus様が御到着されるまで暇ですね…。折角なので、今ちょっと会ってあげてください!”
“待て、何の話を…?”
嫌な予感に俺が制する間もなく、彼は頭を仰け反った。
両手を持たない俺は、彼のほっそりと開いた口を塞ぐ術を知らない。
“アゥォオオオオオオオーーーーーー……”
総帥の召集は、瞬く間に青空に向かって放たれたのだ。
“ォオオオオオオオーーー……。”
“アゥォオオオーーーー”
狼の遠吠えに背筋が凍る迷い人とは、いつも笑っていたものだが。
これには俺も、慄かざるを得なかった。
呼応する群れの数は、完璧に組み合わされた高低の音色のせいで、全く推し量ることが出来ない。
“うん…すぐ、来ますよ。”
“…Siriusも、きっと喜ぶと思います。”
その一言は、俺から逃げ足を喰らって動けなくしたのだった。