86. いつまでも共に
86. Together Forever
「ああ……」
「そこにいるのかい?」
「―。」
名前を呼ばれた俺は、弱々しく伸ばされた左手の指先に向け、そっと鼻先を迎えて触れさせた。
「ええ、此処におります。」
「ゴルト…様、でしたか。」
いいや…違う、のか。
どうなのだ、俺には良く分からぬぞ。
幾ら彼の大狼の様相を完璧に真似たとて、知らぬ人間とのやりとりまでもこなせる訳では無いのだ。
仮にその記憶の一部を内に秘めていたとしても。
彼はもう、俺の中にはいないのだ。
分からない。
だが、その狼が目の前に再び姿を現したことで、この老人が喜ぶのなら。
俺は少しばかり誇らしげに、彼のことを演じても良いだろうか。
お前が世話になった男だ。
ここは一肌…いや、毛皮を脱がなくてはなるまい。
舌をしまい込み、目を瞑って見ると、俺は片時も忘れることの無かった、その狼がありありと映し出されて。
必死で奮い立たせなければ、声も出せそうにない。
「…ああ、久しいな。主よ。」
「此処におるぞ、我が友よ。」
「……ダイラス。」
その名を正しく呼ばれた老人は、末期の瞳を大きく見開いて、夢を見ている。
「我は最期まで、主のことを…その名で呼びたく思うぞ。」
「何故ならば、我は…―であるからだ。」
どうだろうか。
うまく、出来ているだろうか。
彼に身を委ねるのではない、己の口から紡がれる言葉。
人様に披露することに恥じらいを覚えつつも、悪い気はしなかった。
このようにしても、許されるのなら。
貴方が嗤っても、嫌でないのなら。
…俺はもっと勿体ぶって、気高く振舞って見せても、良いのかも知れない。
俺の中に彼の面影を見出したダイラスは、赤子が乳房を掴みたがるように、よろよろと鼻面を掴みたがる。
ああ。あの大狼なら、叶えてやるだろう。
「……。」
ぎこちないな。
Teus以外の人間にこうするのは、初めてだ。
俺は彼の胸元に額を埋めたまま、最期ぐらいは、自分の言葉を贈ろうと口を開く。
「主の気持ち、我には分からないでもない。」
目指すものがあった、同一であろうとした存在がいたのなら。
主がどれだけ孤独を感じていようとも、それが永劫に辿り着けぬ一致であろうとも。
それが主を生かす唯一の糧となっていたのではないか。
それと言うのはな、聞いてくれ、主よ。
奇遇にも、我にも似たような狼がおったのだ。
群れを追われた一匹狼でな。そやつに鱈腹喰わせてやったら、不覚にも懐かれてしまったよ。
毎夜のように、我にそっくりな声で天に向かって吠え。
薄暮薄明になると、我が世界に追いつこうと無我夢中で走り続ける。
それはそれは、厄介な大狼に憧れを抱かせてしまったのだ。
どう思う?信じられまい?
群れを失った我を、まだ慕おうとするものがいようとは!
我の気持ち、主なら分かってくれようぞ。
「なあ、ダイラス。思うに我は、主と同じ気持ちでおるのだ。」
主が、ダイラスと呼ばれるために生きたこと。
その男を目指し、近づきたがったこと。
それを我は…正しかったと思うのだ。
すり替えの種明かしとやらを、この男に聞かせてやったようだな。
こいつにそんな価値があるかはさておき。
どうして、そのようなことをした。
後ろめたさが、あるようではないか。
これでは、死ぬ間際に赦しを請うための懺悔だ。
主は良い表情をしている。
とても、気分が良さそうだ。
きっと、誰にも言えず、苦しかったであろうな。
だが…我は、悔いて欲しくないのだ。
主が惜しまなかった努力の一切を、無下にして欲しくない。
どうして、このようなことを言うか、不思議であろう。
勿論、この狼が我を継ごうとする意志を否定してやりたくないからと言うのもある。
ああ言っておいて何だが…同じ狼だ。愛着の一つも、湧いてくる。
しかし、もう一つあるのだ。
我はダイラスから一度鼻面を離すと、顎でしゃくってTeusを怪訝な顔で示した。
「この男は、実に厄介極まりない奴でな…」
「あろうことか…我になりかけた狼の邪魔をしやがったのだ。」
「……Fenrir。」
あと、少しであった。
本当に、一歩のところであったと言うのに。
こいつは、彼の全てとも言える夢を奪った。
我となるために生きた意味を、無に帰したのだ。
…最低の友人だとは思わんか、ダイラスよ。
主ならば、絶対にそんな野暮な真似はするまい。
仮初の夢は、終わりを告げた。
その狼のもとに、我はもういない。
在るのは、拭い難い憧れの記憶と。
それに、一生近づけないという絶望。
徒労に終わった半生、これまでを否定された怒り。
そんなものが、渦巻いて整理がつかない。
「だがな……だがなあ、ダイラス。」
ああ、そうだとも。そうであろうとも。
Teusという男が取り戻そうとした狼に、我は居座ってはならなかった。
我が亡霊が、枷となって狼を縛り付けるのなら。
それは、我の意志に反することだ。
この狼は、我の仔だ。誰もが羨むほど、幸せに生きて欲しい。
翻って、主はどうだ。
ダイラスは、弟に、自分自身として生きて欲しかったと思うか?
ああ、きっとそうではあるまいな。
兄のようになりたい。そう言って、自身を失うようなことは、望んでなどいないのだ。
だからこそ、主はこうして、全てを洗いざらい、雪上にぶちまけた。
「それでも主はっ……主だけは、肯定されるべきだと思っておるのだ……!!」
「……?」
酔いの醒めた我には、主に言ってやれることがあるのだ。
主はあいつに、本当によく似ている。
臭いを丹念に嗅がなければ、見分けがつかぬほどにな。
主がその気になったなら、どちらがどちらであるかなど、とても人間どもには気付くまい。
しかし、主はこうも言った。
“やはり双子の兄弟だ。”
“何でも同じでいたがるものだし、ちょっと違っていたくもある。”
「……」
主が言う共存。
正直のところ、それを我は、あまり快く思っておらぬ。
これが、そなたなりの未来であると言う。
きっとあいつは、こんなヴァナヘイムを望まなかった。
我に言い聞かせてきた、人間どもと、狼が暮らせる世界とはこのようでは凡そ無い。
それで良いと思うのは、主がすっかり心をダイラスとなりきれなかったからか?
違うぞ。
主は、ダイラスだ。
誰が疑おうと、我は擁護して見せよう。
主は、完璧に真似たのだ。
するとどうだ。
主でも気が付かぬような、奇跡が起きていたのではないか?
我はそう思っている。
この狼はとんだ青二才だ。
我を盲信的に目指す余り、完全に自我を捨て去ることを目指しておった。
その完璧さときたら、我であっても驚くほどだ。
しかし、その段階でしかなかった、という訳だな。
こいつは、よく零しておったのだ。
決して、己が目指す我を越えてはならない、と。
限りなく近づきつつも、ほんの少しだけ劣る様な。
我を最上位に常に見据えた模倣に明け暮れていたのだ。
分かるな?
主には遠く及ばぬ。
何故なら、主に芽生えたダイラスという自我は。
疾うにその名の男を越えているから。
共存。
主は、とんでもないことを実現してみせた。
我は、有り得ないと言い放った。
そんなことは、出来るはずがないと。
実際、あの男がその世界を手にしたとは思えん。
しかし、主は違う。
良いか、ダイラス。
我はダイラスという人間にとって、最高の友であったという矜持がある。
あやつのことは、何でも知っておるつもりだ。
他のどの人間にも打ち明けられなかったような悩みも、聞いて来た。
狼にしか、共感できぬようなものばかりだ。
それを人間の言葉で受け取り、また狼として頷くことのできる存在は、疑いようも無く我だけであった。
誰にもそれは譲らぬ。
自惚れにも、今でさえそう自負しておる。
その我が、言うのだ。
主は、既に偉大な兄であり、
それ以上であると。
ダイラス。
主は、本当に素晴らしく生きた。
主が辿り着けなかった世界へ、ただ一人で歩き至って見せた。
主には出来ない、などと言って悪かった。
そなたはやり遂げたのだ。
だからダイラス。
どうか、自分が間違っていたなどと言わないでくれ。
悔いるなとは、言わない。
しかし誇れ。
我は讃えようぞ。
最期まで我は……主が、主でいて欲しいのだ。
最期まで。
これで、良いのか?
「……ありがとう。」
「……。」
「Fenrir。」