85. 双子の欠片 4
85. Splinter Twin 4
狼たちに、灯りは必要がないらしい。
部屋は傷んだ壁の隙間から差し込む光の筋だけで、照らされていた。
その中央、粗末な布が重ねて敷かれた上に、Siriusは横たわっていた。
きっとFreyaが、自分の代わりに母狼の元へ返してくれたのだろう。
傷ついた狼を癒すため、彼女は夜を徹して尽くしてくれたに違いない。
昨晩を呆然と過ごしていただけの俺とは、大違いだ。
「……Sirius?」
その名を呼ぶことを躊躇ってしまう。
俺は、大狼に纏わる物語に、脚を踏み入れすぎてしまったようだ。
もう少なくとも、Fenrirの前では、名前を呼んでやりたくない。
具合は、どうだろうか。
後ろで見守る母狼を刺激しないよう、ゆっくりと歩み寄って外套の裾を降ろし、跪く。
その所作に、彼は一切の反応を示さない。
そのせいで、俺は毛皮に指先を触れるまで確証を得ることが出来なかった。
……。
ありがとう、Freya。
良かった。一命は取り留めたみたいだ。
Skaを癒した上に、今度はSiriusまで、何の躊躇いもなく救ってくれた。
死者を導く役目を拒んだ女神は、狼を癒すためにどれだけの犠牲を払ったのだろうか。
ぼろぼろになっていく彼女を想うと、干乾びたはずの目が痛くて、堪らない。
床に垂れたマントの裏地の毛皮を摩り、こびりついた血痕、それから彼の傷口へと目を凝らす。
問題は、その失われた右後ろ脚。
「……。」
当然、触れて確かめることなど許されなかった。
凍傷による化膿も、進行している様子は無い。
だが、これはもう火を見るよりも明らかだった。
「そうか…。」
足先は、Fenrirに喰いちぎられたままであった。
毛皮が禿げ、突き出た骨ごとを薄い肉膜が覆っている。
痛みが無く、苦しくないのなら、それに越したことはない。
しかし、彼女の力を以てしても、新たな狼の脚与えてやることは、出来なかったのだ。
そんな期待を、してはならなかったと思っている。
だけど、心の何処かで、この狼の傷が元通りになって、脚が生えて、また元気に走り回ってくれるような、そんなハッピーエンドを見せてくれるような気がしたのだ。
そう思うほど、彼は不幸になってはならない存在だと言うのに。
俺は、Siriusから走る喜びを奪った。
二度と、群れ仲間たちと遊び回れない、狩りへ繰り出せない、人間の手から逃げ出せない。
「……。」
俺はもう一度首元で止めていた外套を外すと、それを床に敷いた。
あの夜と同じように、Siriusをその上へと乗せる。
どうしてそんなことが、許されるのだろうか。
Yonahは、何も言わなかった。
部屋の暗がりから此方を窺う無数の眼も、動きを見せては来ない。
「……ゴルトさん…。」
今、そちらへ連れて行きます。
振り返ると長老様は、噛み砕かれた右腕をマントの中に隠したまま、しわがれた左手でSkaを愛おしそうに撫でている。
Skaは妻の犯した失態を償いたいようで、外套の開き部分に鼻先を潜らせては匂いを嗅ぐ仕草で訴えかけるが、彼は何でもないと言うように素知らぬふりだ。
「ああ、Siriusを……ありがとうございます。」
恐らく、受け取るつもりだったのだろう。
だが使い物にならなくなった右腕が健全であったとしても、大人になった狼一匹をこの老人が抱きかかえることは無理だったに違いない。
俺だって、Skaぐらいまで成長した狼を両腕で運ぶのは骨が折れる。
それで、俺は老人のように腰を屈めてSiriusの様子が分かるようにと長老様に包んだ狼の表情を見せた。
まるで、赤子の産声を聞かせるようだと思った。
「……そうでございましたか。なるほど…道理で。」
自分とFenrirが越えた一夜のうちに何が起きていたかなど、ヴァナヘイムの人々は知る由もあるまい。
しかし長老様は、毛皮を時折膨らませて昏々と眠り続けるSiriusから、その声を聞いているらしい。
次の一言は、そうとしか思えなかった。
「そんなに、お父さんのことが…。」
……!?
今、なんて…?
「いやはや、冒険好きなところまで、そっくりでございますなあ。」
俺は、狼の言葉が分かるのだと、そんな嘘を自慢したことを酷く後悔させられた。
あろうことか、この方に向かって。
そして、Fenrirが言った通りだ。
彼らが抱えている意志を言葉にするなんて、とんだ野暮で。
常日頃からSkaの願いを、きっと感じ、気に留めていた。
こうして今、それを実現させてあげるために。
長老様は命の灯を、激しく燃やしてしまっている。
「……貴方様には、しっかりと面倒を見て頂きたいものです。」
「……。」
「申し訳……ございません。」
「ゴルトさん…。」
「私の……私のせいで…。」
膝から崩れ落ち、雪の上へと涙を零す。
「Skaが…Siriusが…」
「Fenrir……がぁ…」
「ごめんなさいっ……。」
「…ごめんなさい……。」
「……。」
よろしいのですよ、Teus殿。
彼の命をお助け下さったこと。母に代わって、私からお礼を言わせてください。
貴方様が心配なさらずとも、この仔はきっと、走りたがる。
そして貴方様は、そんな彼のことを救いたそうだ。
どの狼にも、分け隔てなくそう思っていらっしゃるのですね。
「……Fenrirも。きっと喜んでおります。」
「え…?」
首を垂れていた俺は、長老様がその名を口にしたことに驚いて顔を上げた。
「今、なんと…?」
俺は、終ぞ親友たる大狼の名を、師とも言えるこの方に伝えそびれていたのだ。
どうして、その名をご存知なのです…?
も、もしや貴方は…
Fenrirにすら、お会いしたことが?
彼は嬉しそうに首を振り、それから自分と同じように、膝を崩して跪いた。
「……Teus殿。」
「足元を、御覧なさい。」
貴方様には、恥ずかしがって会いたがらなかったようでしたが。
……これは、彼の足跡に御座いますね?
「……っ!?」
そうです、貴方様がお座りになられている、それでございます。
「Fenrirっ……!?」
今度は俺が代わり立ち上がった。
辺りを大急ぎで見渡し、林の奥へと続いて行く大股の痕跡に目を凝らす。
「そこに…そこにいるのかっ!?」
「…Fenrirっ!?」
まさか…
まさかFenrirが、
此処まで来ていたって言うのか?
どうしてこの廃屋を知っているんだ?
いつの間に彼はヴァン川を越えて、ヴァナヘイムの北の狼たちと交流を持ち始めていたんだ?
そ、それに…ほかの狼たちは、突如現れた大狼のことを、受け入れたのだろうか?
それらは全て、愚問だろうか。
古の記憶に従えば、これはある種の再会であるのだから。
しかしそれでも心配で堪らない俺を、彼はまだお人好しだと呼ぶだろうか。
「おお…Fenrir…これが、Fenrirの…。」
長老様は目を輝かせ、その足跡に接吻するかと思われるぐらいに顔を寄せて眺めている。
ああ、なんと大きいことだ。
こんな大きくて、立派な狼と、お友達であられるとは!
是非とも、彼の背中に乗って見たかった!
きっと、色々な場所で遊んだのでしょう。そんな話を、もっとお聞き申し上げたかった。
彼の名が、Fenrirで誤りないのなら。
その狼は、人の言葉を操りますね?
素晴らしい!彼はどんな言葉を、貴方様に向けて放つのですかな?
どれくらい、その狼は食べるのですか?
彼らが腹いっぱいに獲物を平らげる一部始終を、ずっと見ていたくなりませんか。
残念ながら生肉は口に合いませんが、一緒に人間の料理を食べてみたいと、ずっと思っていたのでございます。
ああ、Teus殿。
楽しくて、たまりません。
ずっと、いつまでも、こんな話をしていたい。
貴方様と、狼たちと。
彼は胸を押さえ、それから陶酔したように目を細めた。
「…こんなに胸が躍って、苦しくなるような時間を。」
ずっと。
ずっと。