85. 双子の欠片 3
85. Splinter Twin 3
いつも彼らと言うのは、死ぬ間際ならば何でも言うことを聞いて貰えると思っているのか
一生に一度と言うような、聞き捨て難いお願いをする。
Teus殿、お願いでございます。
どうか私目の姪御と、どうか最期まで一緒にいてくださいませんか?
私では、兄さんの匂いになれないし、大狼の揺り籠にもなれない。
あの子には、何の拠り所もないのです。
狼に少しばかり育てられたからと、一族に疎まれる理由なんて少しも無いのです。
きっと彼の娘は、人間である貴方様とも、Skyline たちとも幸せに暮らしたいと願っております。
それが叶いそうだ。
見届けられそうだ。
兄さんの代わりは、そこまでで良い。
狼の番は、死別のその時まで、一生添い遂げます。
どうか、彼女の狼におなり下さい。
どちらかが、息絶えるまで。
天に向かって別れを告げるまで。
その時まで。
「……。」
俺は外套の中から、ヴァナヘイムの館で拾い上げた手記を恐るおそる取り出し、しわがれた表紙を手袋の上からなぞった。
老人の告白に耳を正しく傾けていたなら、これはその、ダイラス・ルインフィールドと呼ばれる人物の物のようだ。
つまりある一点を除いて、俺の予測は全て正しかったと言うことになる。
Fenrirが嗅ぎ取った痕跡に自分だけが有する手掛かりを混ぜ、結論を急ぎ過ぎたのだ。
…言い換えれば、彼の直感は何も間違ってなど、いなかったのだ。
どうして、Vesuvaの王となった者の城が、未だヴァナヘイムに置き去りにされているのか。
それを彼は、妙に引っかかると言ったのだ。
この違和感に、俺達が伝えられるべき何かが隠されているのでは、と。
そしてあの日の夜、長老であるゴルト氏は、自らあの手帳の持ち主が自分であると告白した。
俺がそれをヴァナヘイムの屋敷で拾ったのだという嘘を、揺さぶりとして直ちに見破ったはずだ。
その上で、これは自分の書き記したものだと認めた。
これがFenrirの言うところの、不自然さが俺達に語り掛けようとしているものに他ならないのだとしたら。
俺はこのような結論を出したのだ。
身代わりの人形が、存在したのではないだろうか。
「本来、Vesuvaのあの館の主として最後を遂げるのは、貴方自身の筈だった……。」
そこまで辿り着いておきながら、俺は双子の兄弟の真実を見紛った。
ただ一つ結論を急いでしまった点。
それだけが悔やまれる。
これは、全て俺の間違った推理によるものだ。
彼には、この2つの手記の存在を知らせていない。
もしFenrirの手元にあらゆる情報が集められていたならば、見抜いたであろうか。
…焦っていたのだと思う。
最近のFenrirの言動には、もう明らかにSiriusという大狼への一致への希求が滲み出ていた。
このままでは、彼は本当に森の奥深くへと姿を消し、自らを見失って、その狼に生まれ変わろうとするだろう。
それを止める資格は、今思えば友人である俺には無かったのだと明らかにされている。
Siriusと俺の、Fenrirを賭けた取り合いっこは、若い狼の犠牲を産んだからだ。
でも、冬の深まりを感じた俺は、寒さの余り、居ても立っても居られなかったのだ。
もしヴァナヘイムに、Fenrirですら覚えていないSiriusの過去を知り得る人物がいるのであれば、俺は彼を引き合わせるつもりでいた。
生き証人によってSiriusの記憶を補完させれば、FenrirのVesuvaへの一匹旅を思いとどまらせることができると踏んだからだ。
きっとFenrirには隠し通しておきたいような過去が眠っている。
それを突き付けてでも、俺は彼がSiriusとなって自信を埋没させるような憧れへの到達をして欲しくなかったのだ。
それでFenrirをなるべく傷つけないよう、先に秘密を垣間見ることができるなら、そうしようと深追いを続け、罠に嵌った。
Vesuvaの領主とは、結局のところ身代わりになった弟、ゴルト・ルインフィールドでは無いのだ。
この男は、Siriusという狼との日々を経ていない。
そしてこの事実を、ルインフィールド兄弟とSiriusしか、知り得ていない。
裏の裏、
全ては、表向き通りに進められていた。
そうこの老人は、語っている。
本当だろうか。
俺は最早、彼の言葉の一切を信用できなくなっていた。
彼の言葉の、何処までを弟のものとして受け取れば良い?
或いは、兄の意志として、耳を傾けるべきなのだろうか?
これが、恐れていたことだったのだ。
この老人は、疾うの昔に完全に自身を失ってしまっている。
Fenrirは、あと一歩で、このような最期を迎える所だった。狂おうと必死だったのだ。
Freyaが身を賭してまで生かそうとした、あの人だって。待ち続けていた夫はきっと気付くだろう。
「……。」
長老様が語った真実、それはFenrirに伝えて良いものだろうか。
結局、俺はその判断を下せなかった。
けれども、それと彼の願いというのは、全く切り離して考えてよいものだ。
「もちろんです……。長老様。」
貴方が冀わなくとも、私のFreyaに対する感情は、変わることはありません。
喩え彼女がどのように育てられようとも、その父親の兄弟がどんな過去を抱えていようとも。
それは私たちのこれからに、関係のないことです。
ですから、そんなお願いをなさらないでください。
冷酷な口調で、そう告げた。
少し、腹を立てていたのかも知れない。
自分が聞きたがったことの殆どを彼は話してくれたのだが、それに託けて彼女と一生を沿い続けて欲しいと願うのは、都合が良すぎると感じてしまっていた。
「ああ…ああ、Teus殿。」
「ありがとうございます。」
神に、赦しを得たとでも言うようだ。
目の端に涙を滲ませ、最後まで歩くのを手伝ってくれたSkaの毛皮を両手で撫でる。
「あの仔もきっと、喜んでおられます。」
……。
あの、仔?
「さあ大丈夫。出ておいで。」
長老様は、扉の取り払われた廃屋の暗闇に向かってそう呼びかける。
彼の声音が若々しくなるときは、いつだってそうだった。
「怖くないから。」
あの館と同じように、入り口の先は暗く、見通せない。
しかし、確かに先客の気配があった。
勿論、この廃墟の主たちが何者であるかは、知らされている通りだ。
しかし、あの仔、とは……
まさか。
予期せず腹の底が締め付けられ、まだ心の整理がついていなかった俺は目を逸らしたい衝動に駆られた。
“グルルルルゥゥゥゥ……”
一匹の狼が、明るみへと歩んでくる。
それが誰であるのか、長老様はおろか、自分にさえも容易だった。
覚悟せねばならぬ邂逅だった。
それなのに、俺は反射的に一歩後退る。
「ヨ、ヨナ……」
Skaの妻だ。
避難所にいて当然だろう。彼女はいつも、長老様の屋敷の裏で家族と過ごしていた。
Yonahは鼻に深く皺をよせ、耳をこれでもかと言うぐらい強く引き、その怯えようがありありと表情に刻み込まれている。
それは、彼女が母親としての使命に駆り立てられているからであった。
侵入者から、これ以上仔狼たちを奪わせないための。
遥か昔から変わらない、献身的な抵抗の構え。
こんなにも殺気立った雌狼を、初めて見た。
無理だ。
俺には、頭を低く下げ、必死に威嚇の表情を繕う彼女に近づけない。
自分が、奪った気でいるからだ。
そう言うのは、間違っているだろうか。
けど、少なくとも、Fenrirに背負わせるべきものではない。
対照的に、長老様は玄関に薄く被った雪に足跡をつけ、中へと進んでいく。
「……おお、Yonah。昨日は怖かったね。」
“ヴゥゥッ…ヴゥゥゥゥ……!”
「皆と一緒に、眠れていたかい…?」
“ヴゥゥゥ……”
Skaも同時に尾を高々と上げ、番に向かって何かを伝えようと険しい顔で牙を剥く。
まずい、一触即発だ。
「ゴルトさん…あまり近づかない方が…」
刺激しない方が、今の彼女は、喩え貴女でさえも、脅威と見做しかねない。
そう伝えようとした直後。優しく頬を撫でようと伸ばした右腕を、Yonahは限界だと容赦なく齧り付いた。
“ヴァウゥゥゥッ…!!”
「……っ!!」
“……。”
衣服の上からでも貫かれていると分かる、猛々しい牙。
Yonahは怯えた眼を零れそうなほどに見開いて、夫の主から手を上げられるのを待っていた。
しかし長老様は、表情一つ変えることなく、寧ろより優しい瞳で、彼女の恐怖に付き合おうとする。
「……うん、うん。そうかい。それは大変だった。」
「Skaの代わりによく頑張ったね。Yonah。」
「ありがとう。」
“……。”
“……クゥ…。”
彼女は、折れた。
耳は寝かされたままであったが、既に表情に、威嚇の面影は残されていない。
ゆっくりと顎の力を緩めると、枝木のように細い長老様の右腕は、力なくぶらりと垂れて、外套の中に仕舞われた。
老人でなくとも動脈を貫くほどの重傷であるのに、彼は呻き声の一つだって狼に聞かせてやらない。
彼が、自分の代わりに腕を差し出した。
そんなことを考えてしまう。
だって、本来であれば、俺が彼女の怒りを、我が仔を奪った報復を受け止めるべきだったからだ。
「…Teus殿。」
「あの仔を、連れてきて貰えますかな。」
最早、彼女は俺のことを拒まないらしい。
「…分かりました。」