85. 双子の欠片
85. Splinter Twin
ヴァン川の怪物
彼はそう名付けられたと言います。
どんな風貌をしていたのでしょう。皆の妄想は膨らみ、独り歩きをして止めませんでした。
その足跡からして、とても狼と呼べる大きさではない。我々は見降ろされる側になったのだと。
きっと人なんて、丸呑みできてしまうような大口をしているぞ。爪だって、抑えつけられたらそのまま四肢を切り離すようなそれだ。
耳や鼻も、縄張りに迷い込んだ獲物の位置をすぐさま捕らえてしまうほど敏感なんだ。だから狩人は、ヴァン川の向こうで狼を一匹たりとも狩れなくなった。
そして、人間の言葉を、どうやら操ることが叶うらしい。
考えたくも無いが、我々神様と同じ…いやそれ以上の知性を備えているんじゃないか。
狼に噛み殺された狩人の犠牲が一人も現れないというのは、そういうことだ。
ヴァン族の狩人らは、彼らに脅威とすら見做されていない。
鉄の森において、我々とは神に近づこうなどと足掻く、並みの人間でしかない。
そんな全知全能の狼が、もしその怪物が、川を越えてきたら…?
このままでは、神族の立場が危うい。
それが、発端でございました。
‘狼狩り’ が、歴史の表舞台へと立ったのは。
「皆、躍起となっておりました。」
狼は、狩らなければならない。少なくとも、大狼の目が届かぬ東側は、我々の領地であることを、見せしめなくては。
対岸の森への狩りが禁忌とされ、
ヴァナヘイムに、狼は死に絶えました。
安息の地は、消え去ったので御座います。
Teus殿。
私は、何処までお話したらよろしいでしょうか?
「え…?」
唐突にそう投げかけられ、完全に聞き役に回っていた俺はたじろいで答えあぐねた。
何処まで話せば良いか、だって…?
「彼を、ご存知ですね…?」
「その後の彼を、何処までご存知なのです?」
「……?」
ぞわりと、言葉が背筋を這った。
Siriusの、‛その後’ を知っているか…?
何で、そんな聞き方をするんだ…?
この時点で、俺はヴァン神族の人々にはSiriusとFenrirの区別がついていないであろうことを殆ど確信していた。
だったら、彼を‘どこまで’ 知っているかとは尋ねない。
現在進行形で、Fenrirは紛れもなく、俺に語り掛けることが出来ている。
……そうじゃないのか?
自分とFenrirの推測が正しければ、彼らは一度、その ‘ヴァン川の怪物’ による襲撃を退けている。
その犠牲としての、Vesuva。噛み跡としての、ヴァナヘイム。
その代償としての、断頭の王。その跡継ぎとしての、狼率いの長老。
そのような対比が明白に為されていた。
そして、例の手記の持ち主がVesuvaには赴かれなかったことから、
その事件には、すり替えが起こっている所までは、掴んでいるのだ。
逆に彼らは、その後のSiriusがどうなったのかを知らない。
Fenrirが彼を喰い殺し、森の王として君臨していたことも、知らないはずだ。
だから寧ろ立場は逆で、どうやって俺がその大狼と通じ始めたのかと、不思議がっているはずだ。
ヴァナヘイムへの襲撃を再び唆そうと企てていると疑っていても、おかしくは無いぐらいには、探りを入れたくて堪らない。
どうして、此方がSiriusの ‘その先’ を知らない、そんな前提で話をしようとしているのだろう?
そんな違和感に、早く勘づくべきだった。
長老様の言葉が湿気を纏いだしている前兆のようなものを。
「どうでしょう?」
「何処まで、知りたくお思いですかな?」
貴方様は、きっとヴァン族の歴史の全貌を把握なさっていない。
それと同じように、大狼の一生とは、貴方様の中で完成されつつある途上であるようだ。
「何処までなら、知って良いと貴方様は思えますでしょうか?」
「…、…うぅ…。」
老人のように胸をきつく握りしめ、平静を保てずにいた俺は、相槌を打つ代わりに呻き声をあげた。
落ち着け、狼狽えては駄目だ。
惑わされてはならない。
もちろん、全てが知りたかった。
そして全ての話を聞き終えてから、俺は思考すべきなのだ。
それなのに、この方の言葉のせいで。
段々と、脳内でストーリーが出来上がり、勝手に捻じ曲げられて。
もう目を背けてしまいたく、耳を塞ぎたくなってくる。
「ゴルト……さん…?」
なんだ、この人…?
Siriusの、一生が。彼の生がFenrirのこれからを変えてしまうなどと。
そんなことを言っていられなくなって来ている。
そのことに、ようやく気が付いた。
「ほっほっほ…はっはは……はあぁ…。」
「ああ…私は…気がおかしくなってしまいそうだったのです!」
長老様の、様子がおかしい。