84. 総帥の召集 4
84. Patriarch's Bidding 4
どうやら私たちは、辿り着いたようですね。
狼のように身を縮込めたまま眠ってしまった老人に起きて欲しくて、俺はそんな独り言を吐いた息に飛ばす。
「ゴルト……さん?」
最後の登り坂は随分と揺れたので、それが彼のお身体に障りはしないかと心配だったのだ。
セラスという使用人の話によれば、この方は心臓を悪くしておられる。
そして、昨晩にお出掛けになった際に、突然胸を押さえて倒れてしまったのだと言うのだ。
一族の長の病とあっては大事だ。恐らくFreyaのような神族たちの決死の看病の甲斐あってか、彼は奇跡的に一命を取り留めたらしい。
しかし、再び刻み始めた脈は余りにも弱々しかった。
いつまた同じ目に遭ってもおかしくは無く、二度目はもう無いだろう。
しかし翌朝、何事も無かったかのように眼を醒ました彼は、何を思ったのか、突然自分を呼びつけ、外出の支度を命じたのだ。
どうして、今でなくてはならないのか。
その理由も今となっては、はっきりしている。
Skaの願いを叶えるためには、彼との意思疎通が可能な男の助けが必要だったからだ。
狼たちは、俺達を此処まで導く日が来ることを知っていていた。
そしてこの方は、Skaが一緒に歩きたいと思う最期の景色が此処であることを知っていたのだ。
俺は、立会人と言ったところだろうか。
双方の手助けを命ぜられていると共に、
彼らのお散歩を見届けなくてはならない。
俺は一先ず先に降り、狼たちを繋ぎ合わせていた胴着を外して自由に動けるようにしてやると、それから長老様に声を掛けることにした。
「ゴルトさん…ご準備が整いましたが…」
如何なさいますか?
そう尋ねたのは、起こすという行為に気が引けたと言うのもあったのだが、彼がこれからどうするつもりかを知りたかったからだ。
「お降りに…なりますか?」
どうやら、この先は、歩いて行かなくてはならないようです。
Skaたちは、此処で止まってしまいました。
「ええ…お手を借りても、良いですかな?」
「もちろんです。」
極地的な木漏れ日で、街中のように雪が少ない。
俺達は、覆い被さる雪で段差の消えた石段の前まで案内されたのだ。
その先には、ぽつんと廃屋が佇んでいる。
此処に違いない。彼らの隠れ家だ。
あまり積もっていないと言うのもあったが、既に沢山の動物たちが通ったお陰で、とても進みやすそうだった。これなら長老様でも、なんとか歩いて行くことが叶うだろうか。
雪面は、驚くほどに荒れていた。
これら全てが狼たちの歩き回った跡だと思うと、とんでもない数の群れが周囲には潜んでいるような気がする。
どうやら昨晩の大吹雪の難から逃れるために、この家屋を利用している話は本当のようだ。
そして今朝になって、辺りを再び彷徨き出したと言ったところか。
Skaは長老様の傍らにぴたりと並んで歩き、常に左手を置くことのできる、老人のもう一本の杖となった。
それとは反対側に立ち、俺は固唾を飲んで見守ることしか許されていない。
肩を貸すとか、そうせざるを得なかったのだ。この狼は、初めて出会った時よりも、俺に対してよそよそしく振舞っていた。
雪上では、彼ほど頼もしい支えとなるものはいないだろう。体勢を保つのが少しでも難しいと感じたならば、すかさず目の前に胴を差し出し、寄りかかって休めるようにする。
じっと待ち、決して犬が散歩を急かすように、主を見上げることもしない。
「ああ…済まないね。大丈夫だよ、Skyline。」
決して、無理をなさらないでください。
僕はいつまでも、こうしていられます。
休みながら、少しずつ進んでいきましょう。
「ありがとう。ずっと傍にいてくれて。」
“……。”
長老様からは見えないように、Skaはその慈愛に満ちた瞳を伏せていた。
俺は、それを隣で眺めることしかできない。
辺りを見渡すと、自分以外にも、この人間と狼の成りゆきを見守っている者たちがいた。
解き放った狼だけではない。脇の白樺林に潜んでいた仲間の狼までもが、来訪者の後をぞろぞろとついて来ていたのだ。
登った階段の先にも、まるでお参りから帰る人々のように、頭を低く下げて数匹がこちらを見つめている。
行く手を阻むようなことはせず、縄張りへ立ち入ったことを咎める気はないらしい。
その誰もが、長老様とSkaを尊重して道を譲り、その群れへと加わっていく。
狼たちに共通していたことは、彼らは長老様を見上げて会釈をして貰えた時だけ、それはもう飛び切りの笑顔で応えるのだ。
尻尾をぶらぶらさせながら近寄って来るときは、大抵甘え違っている証拠だと知っている。
気が付けば、長老様御一行は大所帯となって、雪段を上っていた。
「……昔は、狼たちの居場所は、真逆でございました。」
「……?」
目を刺すような日和に眩暈を覚えていると、長老様はぽつりとそう呟いた。
人の言葉が失われた世界で生きてきた気分だ。随分と新鮮で、聞きなれない響きな気がする。
「Teus殿、教えてくださいますか?…ヴァン川を渡った先では、これほどの狼たちがいらっしゃいますかな?」
「え、ええ…そうですね。こんなに沢山の狼に囲まれるのは、初めてです。」
どぎまぎしながら正直にそう答えると、俺は適切な返事を誤ったかと口を噤んだ。
何となく察して下さってはいるのだろうが、大狼の存在を正直に話したことは無い。
反射的はぐらかしてしまったが、今のは、その狼について話してくれないかという意味だったのだ。
「ああ、ああ…そうでございますか。良いのですよ、老い耄れの言うことなど、誰も信用致しませぬ。狼に語り掛けるように、仰って下さいませ。」
「…すみません。」
「それでは、こういたしましょう…Teus殿。もう少しだけ、私めの思い出話を聞いて頂けますかな?」
思い出話、か。
恐らくは、俺とは真逆の体験を伝えたい、のかな。
「それで、思ったことを聞かせて欲しいのでございます。」
「…分かりました。自分で良ければ、教えてくださいますか。」
「ええ…ありがとうございます。」
狼のように潤んだ瞳を、長老様は此方へ向けた。
群れの自慢話をして貰える時は、いつも楽し気な様子だったが。
今だけは、思いを馳せて躊躇いがちだ。
雪面を撫でる突風で、白い吐息が舞う。
「Teus殿…こう思ったことは、ございませんか?」
「私たちは、狼に喰い殺されるようなことをした、と。」
元々は、狼たちは我々にとって、一つの伝説でしかありませんでした。
Teus殿の故郷では、彼らはどのような扱いを受けていらっしゃったのでしょう。
ええ、貴方様のような方がいらした土地です。きっと其処の狼たちは、Skylineと同じぐらいに可愛がってもらえて、さぞ幸せに暮らしているに違いありません。
如何でしょうか。私共は、上手くやれているのでしょうか。
我々は今でこそ、互いの存在を認めたうえで暮らすことを認め合っているつもりです。
しかし、嘗てのヴァナヘイムでは、信仰の意味合いが違ったのでございます。
狩人として、戦士としての力量を示す、一つの試練として崇められていたのです。
いいえ。崇める、とは少し違うのかも知れません。
よくある話ではありませんか。怖いもの知らずの戦士たちにとって、狼と戦い、彼らに打ち勝つことは、これ以上ない功績として讃えられていたのです。
腕っぷしに自信があるだろうと老い耄れに唆されて、狼退治などと称して良く出掛けるのですよ。
貴方様も、随分と勇敢なお方であるとお見受けいたします。どうですか、そう言ったご経験はございませんか。
怪物退治など、一つや二つでは無いような出で立ちをしておいでだ。
お若い方々の力試しにも、理解を示して頂けるはずです。
皆、一人前となりたいたいのです。その登龍門、儀式なのでございます。
たった一人でヴァン川を超え、森の中に足を踏み入れる。
一段と暗くなった縄張りの中では、常に誰かに監視されているような寒気を覚えると言います。
そして、初めに相対した狼の一匹を狩るのでございます。
逃げられ見失ったならば、彼らを真似て足跡を辿り、執拗に追いかけ続ける。
仕留めるまでは、絶対に帰還してはならない。
肩に戦利品の毛皮を垂らして帰らなければ、一生の恥であると。
神族の誇りとやらのせいで、多くの向こう見ずな若者が帰らぬ人となりました。
しかしでございますなあ。
そう言った風習は、形骸化してしまうものです。
狼を狩ること、ただそれだけが残されてしまった。
勿論のこと、彼らの毛皮を剥いで作った外套は、我々に身を寄せるように温めて下さいます。
狩人が奪った命は、きっと無駄にはなりません。
無駄は省かれるべきだからです。狩る必要のない狼は、そもそも狩られない。
身を以て知ったはずです、我々の冬は非情に厳しい。
そんな余暇のような狩りは、許されないのです。
その筈でございました。
全知全能を歌うだけはあります。神様と言うのは、そんな遊びのような狩りでさえも可能にしてしまった。
…そうですね。
ご存知でいらっしゃるかと。
貴方様は、その奇跡を有する資格のある方でございますから。