84. 総帥の召集 2
84. Patriarch's Bidding 2
散々に暴れ回った吹雪の主は立ち去り、昼下がりは穏やかで、熱の奪われた青空を見せていた。
すっきりとした空模様に目を細め、初めてこの土地の雪景色を目にした日和と重ね合わせる。
山の端に目を凝らすと、そこには山肌に身を隠せず、堂々と威厳を放って立ち尽くす大狼の姿がある気がした。
きっと彼には、此方の表情さえも具に見えている。
だからおいで、と声を出さずに語り掛けるのだ。
少し勿体ぶったかと思うと、やがてその大狼は目にもとまらぬ速さで山を駆け降りる。
次の瞬間には、息の一つも切らさずに傍らにいることを許してくれた。
彼は悠々と尾を揺らし、俺が触れるのを待っている。
そして最高の友に向かって、恥ずかし気にこう返すのだろう。
おはよう、Teus。と。
全てを失って、良い天気だ。
何を幸せな妄想に浸っているのだろう。
きっと、昨日の惨劇を夢か何かのように想い、信じられていないのだ。
たった一日、その差があんな悲劇を齎したのだ。
そうと思うと、俺はやはり狼のように、この季節を好きになれそうにない。
やっぱり、寒いのは苦手なのだ。
彼の毛皮に触れてなければ、とてもこの世界で佇んでなんていられない。
わかるだろう?
なあ、Fenrir。
「いつぞやでございましたかな……。」
ふと我に返ると、傍で長老様が杖を雪に刺していた。
「貴方様は、Skylineの達てのお願いを、私めに伝えてくださいました。」
「…ええ、覚えていますとも。」
確か、新居の鍵を受け取った日のことだったと思う。
何もかもを良くして貰って有頂天だった俺は、どうしてもこの方にお礼がしたくて、人ならざる力に頼ったのだった。
Fenrirに一晩泊めて貰った夜、隣でSkaが丸くなって眠っている隙に、俺は狼と人間の言葉を自由に扱える彼にとあるお伺いを立てたのだ。
Skaは、長老様にどんな想いを抱いているのか、と。
Fenrirは、首を縦には振ってくれなかったっけ。
言葉が伝わらないからこそ、一生懸命に愛情を注ぎ合う素晴らしい関係に、野暮な真似は出来ないからと。
それは全く正しくて、だからこそ、自分とFenrirの関係はよりもどかしくて、俺は喰い下がることができずにその話題を打ち切った。
俺は、お前が世話になっているその老人の話を聞いただけだ。
帰り際に驚いて聞き返すと、もう知らぬふりだ。
彼らは遠吠えをするのでなければ、実に寡黙だ。僅かに傾げた表情に、どんな意味が含まれているかも分からない。
いつの間にSkaと会話を交わしていたのかも分からなかったが、しかしFenrirはどうやら俺のことを表に出さず、さり気なく聞いておいてくれてたらしい。
ありがとう。許されるのなら、少し聞き耳を立ててみたかったな。
今思えば、Fenrirに愛情に満ちた主の話を滾々と聞かせるのは、少し酷だったかなとは思う。
彼はぶっきらぼうに多くは語らず、ただ自分にSkaの思いの一端だけを窺わせるに留めた。
「Skaは…もう一度貴方と一緒に、お散歩がしたいと。」
きっと足を悪くして久しいのだろう。
嘗ては自分と同じように、Skaを連れて街中や裏山を闊歩する日々であったと想像できた。
それがどれだけ楽しい日課であるかは、自分自身が一番良く知っていたからだ。
そして冬の散歩となると、どうやら少し勝手が違うらしい。
「お乗りください。Teus殿。」
品意よく差し出された左手の先には、俺が今まで見たことの無い乗り物が用意されていた。
「これは…狼橇?」
「左様に御座います。」
ヴァナヘイムでは、遠距離の移動手段の一つとして、こうして彼らの力を借りることにしているらしい。
深い雪の中を自由に歩けない人間たちに代わり、無尽蔵の体力を備えた群れが機動力となるのだ。
実際、牝馬に成り済まして走って見ると分かるのだが、足裏の小さい彼らは、いとも簡単にずぼずぼと深みに嵌る。足の長さは足りずとも、こうして彼らに力を合わせて雪原を切り拓いて貰った方が良い。
ちょうど二人が乗れそうな木製の箱には、既に数頭の狼たちが括りつけられており、舌を垂らしてそわそわと互いに視線を合わせている。
その先頭には、ひと際立派に尾を立てて行き先を見据える狼がいた。
―Skaだ。
Fenrirの翻訳に若干の曖昧さがあったにも拘らず、長老様は ‘散歩’ という言葉の意味を、実に正確に汲み取ったのだ。
彼は、自らの願いがこうして成就する瞬間を噛み締めているのだと思った。
僕が率いるのだ、という気概があった。きっと誰よりも尻尾をうねらせて喜びたがっているだろうに、彼は目的地に向かって真っすぐ耳を立てて、役目を全うするのに障害が無いか、狩りの筋道を組み立てるように感覚を研ぎ澄ませている。
本当に疲れを知らないのか。ぼろぼろになりながら、昨晩まで俺と行動を共にしていたとは思えない。
「お手を、貸して頂けますかな。」
「はい。杖をこちらに…。」
右手を取り、片足を縁に掛けたことを確認して優しく引き上げてやる。
「大丈夫ですか? ゴルトさん。」
とても一人では儘ならなそうだ。背中に添えた手を最後まで離さず、身体を落ち着かせられるまで介護する。
「ああ、ありがたい…。」
毛皮の敷かれた台座に深く腰掛けると、彼は皺を目じりに深く刻んで満足そうに笑った。
「ほっほっほっ…、懐かしいですなあ。随分と乗っていなかった…。」
命が滾ったように、白い息が狼と合わせて立ち昇る。
「昔は毎日のように、いろんな場所へと彼らに連れて行って貰ったものです。」
時間が許すのなら、お聞きしたいです。そんなお話。
「…狼たちが、目的地を決めるのですか?」
そんな言い回しに聞こえた気がしたのだ。単に彼らを尊重した言葉遣いなだけかも知れないが。
「ええ…おかしいでしょう?」
「しかし、不思議でございますな。…貴方様なら、分かってくださる気がしてしまいます。」
「そんな……。」
お戯れを。そう言いかけて、口を噤む。
とんでもなかったからだ。
「……。」
込み上げてきた思い出が、不覚にも干乾びた瞳に滲む。
これはいけない。顔を背け、もう一度山の端を眺めるふりをすると、今度こそ狼にその表情を覗き込まれてしまいそうだった。
「はい……とても。」
「とても…とても楽しい…日々でした。」
俺も、Fenrirに世界中を連れて行って貰ったこと。
もっと話せばよかった。
この方なら、打ち明けられただろうか。
そうすれば、誤解は招かずに済んだのだろうか。
遂に姿を現したFenrirという狼は、貴方の希望になれただろうか。
後からならば、こんなにも勇気が湧いてくると言うのに。
もう、遅いのだ。
「さあ、Teus様……当てて御覧なさい。」
ヒューッ……
彼は慣れた所作で口元に指輪を造り、短く指笛を鳴らして見せる。
そして天に手を差し伸べ、何とも若々しい声で、溌溂と唱えたのだ。
「行こうか、Skyline。」
“ウッフ……!!ウッフ……!!”
「……!」
思わぬ先導に、鳥肌が立った。
真の主人などとは、遥かに及ばなかったのだと一瞬で諭されてしまう。
それを合図に狼たちは正しく列を組み、雪原を駆け出していった。
次の瞬間には、のんびりとしたいつもの調子で、この方は俺に笑いかける。
「…彼らが向かおうとしている、その先を。」