84. 総帥の召集
84. Patriarch's Bidding
「ゴルトさん…」
ヴァン神族の長自身が願った通り、彼と過ごす際は親しみを込め、その名を直接呼ぶようにしていた。
きっと、寂しいのだろう。周囲に同年代の友人がいないと見える。
狼たちに会うべく自分の元へ足繁く通ってくれる俺のことを、話し相手としてとても気に入ってくださっていると、常日頃から感じていた。
実際の所、両親との関係がお世辞にも良いとは言えない自分をこうして可愛がってくれるのは、全然悪い気がしないのだ。
群れの話を聞けるのは嬉しいし、これだけ懇意にしてくれた年寄りには優しく付き合ってあげるのが礼儀と言うものだろう。
しかし、今だけはそうする気になれなくて俺は口を噤む。
今日だけは、余所余所しくあるべきだと思ったのだ。
「長老様、ご準備が整ったようです…。」
彼は苦しそうに顔をしかめて杖を突くと、立ち上がって自分の方を見上げる。
「ええ、参りましょう…Teus殿……。」
よろよろと裏庭へと歩む余りの頼りなさに、普段なら堪らず手助けの一つでもしてやれただろう。
それが出来なかったのは、自分自身の困憊を紛らわすので精一杯だったからだ。
眠気を覚える暇も無かった。そのせいだろうか、激しい狼の吠え声が脳裏で響き渡り、耳の奥であいつの笑い声が木霊しているのだ。
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翌日、召集があった。
覚悟していたことだ。
Fenrirのことも含めて、責任の所在は全て自分にある。
逃れ抗う気は、一切ない。
俺は如何様に辱められ、処刑されるのだろう。ふとそんな興味が湧いた。
思えばヴァナヘイムに来てから、一度も血生臭い催しに立ち会ったことが無い。
随分と平和な世界だと、初めてこの土地を訪れた時に感心したくらいだ。
別にアースガルズに、血の気の多い勇敢な神様が多いという訳では無いのだけれど。
しかしFreyaを見初めたとき、それもそのはずだと腑に落ちてしまったことを覚えている。
彼女が過ごすのに相応しい世界があるとするならば、自然とこうなるのだと思えた。
群衆に蔑まれながら、広場まで連行されるだろうか。身に染みるほどに冷たい想いをさせられるのは応えることだったが、あの狼を前にして同じことを言えたものではない。
無抵抗の死、そんな恥も歓迎だ。
「外出のご準備をなさってください。」
それだけに、あばら屋で借りぐらしをしていた頃から世話をしてくれた彼女が、たった一人で屋敷の扉を叩いたのは、予想に外れたことだったのだ。
身包みを剥がされて縛り上げられるものだとばかり思っていた俺は、予め外套を脱いでその使者を出迎えていた。揉め事の種はこれ以上蒔きたくなかったし、武器の類は形態していないことを明示する必要があると思ったからだ。
「セラス…さん?」
よもや、好意が故に俺を逃がそうとしているのではあるまいか。
直に、殺気立った屈強な男たちが扉を蹴破って貴方を捕らえるでしょう。その前に、裏手から立ち去り、ヴァン川の向こうへとお逃げ下さい。
これが、最後の好機です。そう促されているように思われたのだ。
当然のように俺は訝しんだ。
この期に及んでそんなことをしたって、無駄であることぐらいは彼女にも分かるだろう。
白昼堂々と逃げ果せることができるのなら、それは咎められていないのと同じでは無いか。
必ず彼らは、俺が知っているであろう何かを、探りにやって来る。
そして俺は、洗い浚い吐いた上で、ヴァナヘイムの人々が下す裁決に身を委ね、従うつもりでいるのだ。
それ故、彼女には惹かれなかった。
どうだろう。Freyaが手を差し伸べてくれていたのだったら、一緒に逃げようという気を起こしただろうか。
分からない。
彼女はこの館では無く、元居た小屋ですべてが終わるのを待っていた。
Freyaが無事であることを、心の底から喜ぶべきだっただろう。それなのに、俺は彼女に酷いことをされなかったかと身を案じる言葉の一つだって、かけてやることを忘れていた。
俺は、何もすることが出来ずもどかしい思いをしたVesuvaにおいて、最も心の余裕を得ていたのだと痛感させられる。
きっとそのせいだろう。彼女もまた、俺に冷たかった。
Siriusが酷い傷を負っていることを一目で見抜いたのだろう。抱きかかえたまま狼狽えるばかりだった俺には一瞥もくれずに彼を取り上げると、そのまま扉を閉めてしまったのだ。
「ま、待ってくれ……」
最後まで傍らにいてくれたSkaも、気が付けば家族のもとへ帰って行ってしまったのだ。
「……。」
罠に嵌ったあの日のように、気が付けばこの館に辿り着いていた。
たった一人だ。もう、俺には何もない。
遠吠えをしたでも無いのに、喉が枯れて声が出ない。
呆然と次の言葉を待っていると、セラスは躊躇いがちに目を伏せた。
心なしか、彼女までもがよそよそしく見える。
今度は自分を家へと引き入れて、扉でも閉めて欲しかったのだろうか。
彼女は痺れを切らしたように、使者としての役割を告げた。
「長老様が…貴方にお会いしたいと仰っております。」
ゴルトさんが、俺に?
ああ、なるほど。この地では、一族の長が直々に裁くような形態をとるのか。
審問のようなものに、かけられるのだろう。
俺はそこへ、参上しなければならないようだ。
「あ、ああ……。」
「……わかりました。すぐに。」
気が進まないな。
多少なりとも心を許した相手に詰問されるのだ。互いに裏切られたような気がして心が痛むに違いない。
せめて、俺は表情を一つも変えず、冷徹を装うとしようか。
狼の血の痕がべっとりと残るマントは、広間の長椅子の上に掛けてあった。
ゆっくりと彼女に背を向けると、それを取りに行くと伝えて暗がりに身を引く。
これから死ぬべき人間でも、少しは勿体ぶって歩いても良いはずだ。
しかし、そんな猶予などは与えられていないらしい。
背中に投げつけられた言葉は、不穏な淀みを湛えていたのだ。
「…お急ぎください。」
「長老様は…危篤でいらっしゃいます。」